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ニイハオ・パーティー

ニイハオ・パーティー参加者の声を日付の新しい順で載せてあります。

★2005年 7月9日(土) 中国と朝鮮半島と日本のこと
(2005年春からのニイハオ・パーティ)
1月8日(土) 「ニイハオ・パーティー」で国際交流を
★2004年 9月11日(土) 「9・11」3周年のニイハオ・パーティー
8月14日(土) 15歳、タイと異文化体験の話
7月10日(土) 東京大空襲
6月12日(土) 6月12日第二土曜日、国際みんなの家にて
4月10日(土) 純粋に心で語り合えるパーティー
2月14日(土) 韓国・光州を訪問しよう!
★2003年 12月20日(土) ニイハオ・パーティーに遊びに来て!

■2005年7月9日(土)

中国と朝鮮半島と日本のこと(2005年春からのニイハオ・パーティ)
 すっかりご報告が遅くなりました。2005年春からこの7月9日に行われたニイハオ・パーティまで、どんな集まりをもってきたかお伝えします。
 草の根の国際交流を目指して毎月開催されるパーティですが、留学生や就学生、すでに日本でキャリアを重ねている中国人他の海外出身者を迎えて、手料理を食べながらなんとなく...おしゃべりするだけ、という時もありました。
 今年は、もう少ししっかりした問題意識を持とうではないか、と、常連メンバーで話し合いをし、まずはかねてから参加者として顔なじみの在日中国人の皆さんにそれぞれの故郷や日本での体験など、テーマを決めてレクチャーをしてもらおうということになりました。


【3月】 『私の日本人おばあちゃん』


 第一回3月12日はニイハオ・パーティの強力な推進者のひとりである可越(クゥ・イェ)さん(日本と中国をつなぐ映像発信サイト「東京視点」代表)が話し手でした。
 彼女は東北地方・長春の出身。冬は零下20度にもなる厳しい気候風土の東北地方の都市について話を聞いた後、今年2月、プロ・アマを含めた世界のビデオ作品が集う映像コンテスト「第27回東京ビデオフェスティバル」(主催日本ビクター)で優秀作品賞を受賞した彼女の作品を鑑賞しました。
 受賞作は「もくれんの家」代表である八木ヶ谷妙子さんを取り上げたドキュメント『私の日本人おばあちゃん』です。来日間もない彼女の下宿先の大家さんが八木ヶ谷さんでした。10年にわたる交流から生まれた作品です。この日もビデオには収められなかったエピソードが披露されました。
 今でこそ八木ヶ谷さんは「日本のおばあちゃん」として、可越さんの生活を支える大きな存在ですが、当初は生活習慣の違いもあって衝突することも多かったようです。深い理解に至るには正直な本気のぶつかりあいがあってこそ、と改めて感じさせられる時間となりました。


【4月】 日中の軋轢(あつれき)を越えて


 続く4月9日の話し手は呂衍○(ル・ヤンシュウ、○は女へんに朱という文字)さん。彼女も留学生時代、八木ヶ谷さんのアパートに住んで交流を重ねてきた中国人です。この春、日本の大手製紙会社に就職。会社にとっては初めての中国人、しかも女性の総合職の新入社員だそうです。彼女には日本企業での体験や、率直な感想を語ってもらうことにしました。連日終電近くまで働き疲労がたまる生活ながらもやりがいを感じていることが伝わりました。また巨大なマーケットとして全世界から注目される中国へ企業が切り込むための重要なスタッフとして、彼女がおおいに期待されていることもよくわかりました。
 この日のパーティには可越さんも参加。この頃、ちょうど中国では抗日デモが連日繰り広げられ、日本のメディアでも盛んに報道されていました。可越さんはマスコミから取材を受けることもありましたし、彼女自身も「日中市民対話の会」を主催するなどして、日本人と中国人が本音で想いを語り合う場を作って理解し合う方法を模索していました。可越さんにとっては切実な大問題です。ニイハオ・パーティでは参加者全員が自己紹介を兼ねて、そのとき問題意識を持っているテーマについて話す時間がありますが、可越さんが熱く語ったのはこの問題でした。
 かたやビジネスの現場でますますつながりを深める日中関係を象徴し、揚々たる未来を見据える企業人1年生、かたや悪化していると報じられる日中関係を案じてメディアのあり方にも批判の目を向けるジャーナリスト。現在の日中の関係を代表する話題を中国人参加者ふたりの口から聞くこととなりました。


【5月】 韓国旅行


 5月、「もくれんの家」は交流事業のひとつとして韓国旅行を実施(昨年在日韓国・朝鮮人の歴史と生活を講演会で語っていただいた在日二世河正雄(ハ・ジョンウン)さんの案内による全羅南道をめぐる3泊4日の旅)、ニイハオ・パーティは休会となりました。この旅行については後日サイト、またはリーフレットによって報告させていただきます。


【6月】 それぞれのコリアン体験


 6月11日のパーティは韓国旅行をふまえて、参加者ひとりひとりが初めて「在日」の人々と触れ合った体験を語る場としました。
 八木ヶ谷妙子さんは幼い少女だった1923年、関東大震災直後の朝鮮人虐殺を目撃した体験を今も強く胸に刻んでいます。彼女の発言を皮切りに全員が語り始めました。当時は特に意識していなかったが後でわかった事実として在日コリアンの同級生がいたこと、いじめられていたこと、「バタ屋部落」と呼ばれたとりわけ貧しい一画に住む子がいたこと、東京オリンピックまではそうした地域が東京のあちこちにあったこと、「北」へ渡るべきかどうか思い詰めていたらしいこと、知らずに「バカチョン・カメラ」などという酷い差別言葉を使っていたことなどが語られました。
 参加者の年代は20代から90代まで。育った地域も様々です。それぞれの子供時代の社会背景と「在日」の人々の生活ぶりが浮かび上がりました。これらは私たちが分かち合ってきた歴史です。


【7月】  「近くて近い国」に何ができるだろう?


 7月9日は在日三世姜(カン)咲知子さんと日本に住む韓国人高(コウ)さんを迎えてのニイハオ・パーティとなりました。ふたりはパーティ会場である「国際みんなの家」のすぐそばにある朝鮮初級学校で公開授業を参観した直後に立ち寄ってくれました。授業の模様などを聞いてから、日本名を名乗っていた姜さんが自身と家族のルーツを知る過程でコリアン名を名乗るようになったこと、日本にいて映画作品を撮りたいと考えている高さんの思いなどを聞き、参加者が韓国の生活、文化について質問するなりゆきとなりました。
 印象的だったことのひとつは朝鮮人学校が公的な補助のないまま運営されているため財政困難に陥っているということ。図書室ひとつを見ても満足な資料がない、と報告がありました。この際の資料は日・ハングル、両言語の図書を指します。日本に生きるコリアンの子供たちはふたつの文化をつなぐ大切な架け橋であることを覚えて「できること」を模索、実行しなければと意見がでました。
 もうひとつは「在日」という概念が韓国にはない、ということでした。韓国の多くの人々は、移民として海外に渡ったコリアン系カナダ人やコリアン系アメリカ人と同じように「在日」を「コリアン系日本人」と捉えているのだとか。「在日」の人々が置かれている状況や心情を知って伝えることができるのは(つまり当事者は)、彼ら自身とそして日本人なのです。
 一世たちがなぜ日本に来なければならなかったのか、歴史の事実を知り、今も続くどんな差別があるのか、どんな視線が朝鮮半島に向けられているのか、今一度点検しなければと痛感しました。


 以上、報告が遅くなったことをお詫びしつつ、今後のニイハオ・パーティが身近な国際交流をさらに目指すこと、この半年の活動の内容から方向性など汲取っていただけたらと願っています。ご意見・ご感想などいただけたら幸いです。また、ふるってのご参加をお待ちしています。(角取(かとり)明子)

■2005年1月8日(土)

「ニイハオ・パーティー」で国際交流を
 もくれんの家では、毎月第2土曜日の午後4時から7時まで「ニイハオ・パーティー」をおこなっています。
 もともとは、「もくれんの家」の代表の八木ヶ谷宅に下宿していた中国人留学生・就学生が提唱したものです。在日・滞日する中国人たちが情報交換しながら、お互いを励まし生きる糧(かて)にする目的で始めたものです。すでに15年間も継続しています。そして現在では、中国人と日本人との交流を中心としながら、国籍や肌の色や宗教や性別や年齢をこえて、国際交流を通して平和を創り出そう、と会食しながらの楽しいひとときとなっています。
 本年最初の「ニイハオ・パーティー」は1月8日(第2土曜日)におこなわれました。年始でもあり、「のっぺ」(新潟の郷土料理)など手作りの正月料理とビール・日本酒・ワインなどがテーブルをにぎわし、中国人2人を含む14人がつどいました。八木ヶ谷代表が書いた絵や「賀正」の書などが雰囲気をかもし出しています。
 まずはビールで乾杯(うまい!)。食べたり飲んだりしながら、それぞれ自己紹介や近況報告などに話しがはずんでいきました。
 この日も色々なことが話し合われました。主なところでは、(1)ちょうど10年前に八木ヶ谷宅が火災にあった(隣からのもらい火。阪神淡路大震災と同じ1995年)こと、(2)スマトラ沖地震とその報道のあり方と自衛隊の派遣の是非の問題、(3)新潟中越地震と被災した人々の暮らしぶりの紹介、(4)富士山麓に住む農民から入会権(いりあいけん)を奪って米軍や自衛隊が戦争訓練をしていることへの地元農民の反対闘争のようす、(5)イラク戦争と、それがもたらしている社会の荒廃、とりわけ子供たちの精神が破壊されていること、(6)中国のテレビ局に「日本の世界遺産」を持ち込み報道されることになったこと(1年間続く)、(7)自作の詩の紹介と「ヒバクシャ」上映会のお知らせ、(8)最近の「韓流ブーム」と日本と韓国の文化についての感想、などでした。
 そして最後に、八木ヶ谷代表が呼びかけ、スマトラ沖地震で被災した人々への義援金が3万円集まりました。
 パーティーはいったん午後7時に終了しましたが、この日も、なお去りがたい人が何人か残りました。さらに議論は続き、アルコールと料理もきれいになくなった午後9時すぎに散会しました。
 次回は2月12日(土)です。知人・友人を誘って、お気軽にご参加ください。お待ちしています。(片岡謙二)

■2004年9月11日(土)

「9・11」3周年のニイハオ・パーティー
 9月11日(土)のニイハオ・パーティーに参加しました。先月は山口県の実家に帰省をしていて、主催者の八木ヶ谷さんからわざわざ「おいで」と電話をいただいたのですが、1000キロの彼方にいてはどうしようもありませんでした。今回は「9・11」3周年ということで、それ以後の3年間の世界がいかに変化してきたか、自分としてはいろいろと考える事の多い日でした。
 初めてお会いした方、ひさしぶりにお会いできた方、人と人のつながりの良さが身にしみます。参加すること自身に意味を見出せるのがこのニイハオ・パーティーです。
 月刊小新聞『野火』を発行されている桜井さん、体調がすぐれないと聞いていましたがいかがですか? 東京大学で臍帯血バンクの仕事をされている催さん、息子さんを中国に残して研究に打ち込んでおられる姿に感動しました。ずっと前にニイハオ・パーティーに参加したことがあるとおっしゃっていた台湾出身の許さん、私が選挙のために荻窪駅頭で街頭宣伝活動をしているのをご存知でした。杉並区役所で福祉関係のお仕事をされている職員の方も来てくれました。感激です。
 常連の福田さんは、在日コリアンの河正雄(ハ・ジョンウン)さん(韓国光州市立美術館名誉館長)たちが建立した慰霊塔(「在日韓民族無縁の霊碑」)の話をみんなにしてくれました。
……まだまだたくさんの話が飛び交って、いつものニイハオ・パーティーの夕べが過ぎていきました。次回も楽しみにしています。(北島邦彦)

■2004年8月14日(土)

15歳、タイと異文化体験の話
 8月のニイハオ・パーティーはお盆休みの真っ最中のせいか、残念ながら主宰者である八木ヶ谷妙子さんを含めても参加者5人という小規模なものとなりました。今年から常連のメンバーが代わる代わる司会・進行を務め、皆で語り合うテーマを提案することになりましたが、8月の当番は私でした。
 7月後半に念願の姪とのタイ旅行を済ませたばかりでしたから、旅先で撮ったデジカメ写真を取り込んだパソコン片手に張り切ってパーティーに乗り込みました。旅の報告とそこから生まれた「議題」をひとつ、ふたつ、というのが目論見でした。私は聴衆が多ければ多いほど口がすべる(!?)お調子者ですから、少々残念でしたが、Iさんが持参してくれた手料理の数々に舌鼓を打ちながら、あれこれ報告させてもらいました。ここに簡単な旅のあらましと、当日は正直なところ消化不良に終わった議題を提示したいと思います。
 今回の旅は15歳、高校1年になる姪にとって初めての海外旅行でした。世界や日本国内やあちこちを旅してきた叔母としては、かねてから彼女に「自分の足で歩く→世界を自分の目で見る・知る・考える→自分を知る・考える」旅をプレゼントしたいと考えていました。リュックを背負ったバックパッカーとしてのアジアの旅、私の大好きな旅を共にしたかったのです。
 さて、期間は12日間、行く先は航空便の数の多い、つまり格安チケットが購入可能なタイ。公共の乗り物を乗り継いで安宿に予約なしで泊まる旅が始まりました。プログラムのハイライトはふたつ。
 ひとつはタイ北部の古都チェンマイにあるエイズ孤児のための施設バーンロムサイ(日本人・名取美和さん主宰)を訪ねること。もうひとつはさらに北に位置するチェンライから山に入り、現地NGO主催のエコ・ツアーに参加して山地民アカ族の家にホームステイし、現地の子供たちと交流すること。
 詳しくは省きますが、どちらもまずNGOの活発でオリジナルな在り方を教えてくれるものでした。そして特筆すべきは、やはり15歳の若い順応性。タイ到着当初はシャワーの湯温ひとつにも敏感で、アリ一匹部屋にいたと言って叫び声をあげていた姪は、数日後には、ガス・電気・水道無しのアカ族の高床式の家(床下を豚・ニワトリ・ネコ・その他が歩き回ります。室内にはヤモリ他、幾多のは虫類・昆虫の影あり)でゆっくりくつろぎ、茶色く濁った汲み置きの水を、トイレと水浴び場兼用の掘っ立て小屋で「水があるだけましなのよねえ」などと言いながらザブザブ浴びるたくましい娘に変身・成長をとげました。
 姪を見ながら「初めての異文化体験」の大きさをあらためて痛感しました。パーティーに参加した人それぞれにこれを聞いてみたかった。さまざまな体験を聞きながら「異文化」とどのようにつきあってきたか、どのような態度が大切なのかなどということを話し合いたかったのです。
 私自身が初めて話した外国人はベトナム戦争で傷ついた米兵でした...なんて、書くとショッキングに聞こえますが、通っていた中学の真ん前にあった米軍病院の庭に回復したらしい兵士の姿を見つけ、英語を覚え立てで好奇心満々の少女は「ハーイ」と声をかけ、鉄条網越しの下校時英会話デートがしばらく続いたというのが事の真相です。「LSDはないのか」なんて質問を受けた記憶もあり、確かに戦火の匂いがする体験となりました。
 それから例えばヨーロッパに住んでいた頃、田舎町で初めて東洋人と接すると思しき初老の婦人が、私の顔を見て思わず握手するはずの手を引っ込めたこと、なんてのも「逆異文化初体験」の経験として思い出します。彼女に悪気があったわけではありません。初めてのものに接した時、人は一瞬たじろぐ、そういうことでしょう。タイを共に旅した姪にしたところで、初めてカナダ人の友人に会わせた時、3歳ぐらいだった姪はわけのわからない言語と青い眼に驚き、大泣きしたものでした。5歳の頃にアフリカ・ギニア出身の黒人を紹介した時には、30センチはあとずさりしましたっけ。
 大事なのは、こういった「初体験」のその後でしょう。どのようにして「異物」「異文化」とつきあっていくか、どのような態度をとっていくか、どのようにして知っていくか、というようなこと。
 それから周囲にいる「先輩」=「(経験も知識も知恵もあるはずの)大人たち(つまり私たち)」「旅や異文化の経験者たち」がどう振る舞うか、伝えていくかでしょう。話題をつなげ、ひろげながらニイハオ・パーティーのひとときを過ごしたいと思っていました。また次回、機会がありましたら、ぜひ。
 もちろん、国際交流を大きな目的としてかかげるニイハオ・パーティーにとって、こうした問題意識は常に傍らにあるものです。違う国に生きる者が信頼を持ち合うことの困難をひときわ感じることの多い今、静かに熱く語り合えたらと思います。
(角取明子(かとりあきこ))

■2004年7月10日(土)

東京大空襲
 7月10日(土)国際みんなの家で行いました。参加者は中国人2人を含む10人。今回は常連のWさんが数ヵ月前から用意したビデオを観ながら意見の交換を行いました。
 ビデオは2004年3月7日にNHKアーカイブスで再放送された、1978年製作放送の「東京大空襲」でした。ご覧になった方もあるかと思いますが、1945年3月10日未明の米軍による東京空襲の貴重なフィルムと米軍の作戦計画、日本政府・軍部の戦局と大空襲への認識と対応の中に、丸腰無防備な数万の市民が犠牲になる姿が描かれていました。
 Wさんは《戦争犯罪、権力、偶像崇拝》などについて具体的事実を通して考えるきっかけにと話してくださいました。
 ビデオの中で、空襲警報が天皇を驚かさないようにと遅れて発令されたこと。そもそも「本土決戦」を煽りながら攻撃機の発見に竹とんぼを使い、隣組を動員した手作業の消火と、「建物疎開」と称する建物の打ち壊しなどしか対策されていない無謀さと稚拙さ、大空襲の翌日「陸軍記念日」のパレードが行われた事実などが映し出されました。そして、驚いたことにこの大空襲の作戦責任者の米軍ルメイ将軍は後に、日本の航空自衛隊の創設に尽力したとして天皇から勲章を受けていたのです。NHKの直撃インタビューを受けたルメイ将軍は取材を拒否、勲章の撮影だけは許可しています。
 ビデオ鑑賞後それぞれ感想を話し合いました。中国の人達からは「真っ黒な焼け焦げた死体が並ぶ写真は、日本が侵略した中国ではどこでも見られた。胸が痛くなる。日本人も犠牲になっているが、政治の問題だ」
「戦争がいかに人々を犠牲にするか、国は決して民衆を守らないということだ」
「しかも戦後米国の指導で再軍備した日本の政治はアジア諸国から指摘される通り、歴史的反省を本当にする必要があると感じる」
「今のマスコミの報道と比べると、20年前のこの報道の姿勢は良いと思う」
などそれぞれの意見で深め合うことができました。このビデオに興味のある方はご連絡ください。
 次回は8月14日(土)です。Kさんのタイ旅行報告を中心に行います。暑い盛りですがぜひご参加ください。 (Chi)

■2004年6月12日(土)

6月12日第二土曜日、国際みんなの家にて
 参加者は11人。この日はかねてからのお楽しみ、楊さんの手作りギョウザがメイン。
 中国数千年の歴史を誇る香辛料、調味料も登場し大喜びでいただきました。なんと言ってもよくこねられた厚みのある皮がおいしく、このパーティの年に数度の出し物にすっかり定着しました。
 楊さんまたお願いします。そしてギョウザ好きの方はぜひ次回、中国貴州省「本場」の餃子を食べに来てください。
 そして久々のお客さんもありました。専門学校を卒業し、めでたくこの春社会人となったY君です。「体と心の治療・ケアに当たる自分の一番希望した仕事につけた」と語ってくれるY君はとても素敵でした。機会があればじっくり講習など受けたいと話しました。
 レギュラーメンバーながら忙しくてなかなか参加できない中国人のKさんも駆けつけ「自分の目標は見失わないけれど今はどんなことでもやります。翻訳でも通訳でも」と相変わらずのファイトと笑顔でした。ちなみに彼女は通訳のプロです。ご依頼受けつけます。
 新しいお客様は、沖縄の健康食品を扱い始めたMさん。楊さんの友人で中国人の滞日十数年のKさん、Kさんの中国語の生徒のFさんでした。
 版画の個展を終えて「ホッとして、少し力が抜けた感じ」といいながら、聞き上手話し上手のKさん。「青春の辛い別れ」を町で思い出したWさん。終盤に差しかかった国会の状況やイラクのことなど日本の現状と向かい合っているKさんなど常連もそれぞれ近況や思いの丈を話し、意見交換ができました。
 八木ヶ谷さんからは、「生きることはすばらしい」と自信に満ちたお話しがありました。「参加者が、国境を越え自分を語る」これが国際交流の原点と感じる落ち着いた会でした。
 次回は7月10日(第二土曜日)。ぜひご参加ください。参加費は1000円です。 (Chi)

■2004年4月10日(土)

純粋に心で語り合えるパーティー
 こんにちは!
 先週の土曜日、ニハオパーティーでお世話になりました!
今週中、中国国内から来た訪問団や週末(今日)出張の準備とかでとても忙しかったので、感想文をなかなか完成して、送信できる状態ではなかった。遅くなりまして、すみませんでした!
 したがって、感想文の方もじっくりと吟味できませんでした。通じないかもしれないと思いながら、一番思いが強かったこと、本当の感想の一滴かもしれませんが、率直に書いて見ました。
 以下のようです。
 ニイハオ国際交流パーティーのことを随分以前から聞きましたが、一度行って見たいと思っていました。来月から中央線から離れて、阿佐ヶ谷から遠くなることと、『東京視点』の可越さんはあれほど忙しいはずなのに、そのパーティーに時間をかけていることから、好奇心をもって今回参加してみました。
私が今まで来日七年半の間、結構色んな国際交流の場に顔を出しましたが、このパーティー、なぜか心のそこから望んでいた、純粋に心で語り合えるパーティーのように感じました。
 それは
 心というものが、空や海、宇宙も、全てより広いはずではなかろうか?―感動できる心さえ持っている人間であれば、八木ヶ谷様の話を聴いて、ボツーんと浄化されるはずです。
 それによって、「なるほど、どれほど人間の思いが深くなるかによって、どれほど人間を感動させるエネルギーを持っているのだ。所謂、実にバランスを取れた「精神力」の見本そのものなのだ。」と思いつきます。
 そして、
 世の中のために、自分は一体何ができるのか?他国、他人のために、自分は一体何ができるのか?と常に反省する自分も、「偉そうに」「きれいな話ばかり」と自問することさえ恥ずかしく感じました。これほど純粋の、他人に対して思い入りが深い八木ヶ谷さまの、透明のような心に照らされ、この世間の見方や価値観は自分とどれほど離れているのだろうかを構わずに−自分が信じる「偉そう」の道を躊躇なく歩むべきだと確信できます。
 「パーティーに参加したみなさん!それぞれどんな感想でしょうか?もっと皆さんの話を聴きたかった!(他の用事で早めに帰ったことを悔しく思います)」
 以上です。最後の「」になっている段は、前文とのつなぎが悪そうですので、なくしてもいいですが、一応気持ちそのままを書いてみました。
 では、またご指摘のほどよろしく願いします。(Ri(在日中国人))

■2004年2月14日(土)

韓国・光州を訪問しよう!
 2月14日の国際交流パーティー「ニイハオ・パーティー」で河正雄(ハ・ジゥンウン)さんにお会いしました。河さんは埼玉県在住の在日朝鮮人二世で、韓国・光州市立美術館の名誉館長です。若いころから在日コリアンの美術品を収集され、その収蔵品を寄贈することで光州市立美術館の開設に多大の貢献をされたということです。
 在日朝鮮人として幼いころから様々な民族差別を受けてこられたであろうことは容易に想像されることですし、実際そのお話しの端々に滲み出てきます。しかし、河さんはそのことを乗り越えて(決して「水に流す」ということでありませんが)、日・韓・朝の民衆が手を握りあうことを呼びかけておられます。日本人である私は、河さんからひとつの重要なメッセージを含んだボールを投げて寄こされたと思いました。
 八木ヶ谷さんの発案で、「ニイハオ・パーティー」参加者で光州を訪問しようという話になりました。河さんから投げられたボールを投げ返すための取り組みのひとつとして、ぜひ実現させたいものです。(Ki)

■2003年12月20日(土)

ニイハオ・パーティーに遊びに来て!
 今年(2003年)最後のニイハオ・パーティーは、年末の忙しい中、一週間遅れの第3土曜日、12月20日におこないました。そのため参加者もいつもより少なく、こじんまりと8名。そのうち1名は初参加、煮物と漬け物、きな粉パンを持って参加してくれました(とてもおいしかった。ありがとう)。
 自己紹介のあと、話は自衛隊のイラク派兵問題となり、最近外国から戻ったばかりの方から、「ヨーロッパの人は『なぜ日本人はアメリカの言いなりになっているの? 独自のあり方をきちんと示せば良いのに』と言っているよ」という話になり、そのあと次々と話は発展していきました。
 「国際化とか国際貢献と言っている政府や外務省の人間が、一番国際性や国際的政治力がないんじゃないかな」「それを支えているの私たちじゃない?」「選挙に行かない人が50%近くいるよ」「もうちょっと若い人に元気になってほしいよね」「最近の学校教育おかしいよね」「学校のトイレ掃除学生がしていないの知ってる?」「えーっ、いつ頃から?」「私、この間長野県にある松代大本営跡に行く機会がありましてね、みなさんに是非見てほしいと思いました。あの固い岩山を強制連行された朝鮮人の人たちが、延べ300万人も動員され、10qもの地下壕を、食うや食わずで手で掘らされたその跡を実際にこの目で見て、天皇の軍隊=日本陸軍のあまりの過酷さ、非人間性に慄然としました」などなど、話は次々と発展。
 さてこれをご覧のみなさん、ここに遊びに来る人は国籍、仕事、年令、考え方が様々な人たち、いろんな話が聞けるし、話せます。なによりも、この会の中心人物、90才になる八木ヶ谷おばあちゃんに会うだけでも大価値あり。是非一度遊びに来て下さい。(Ka)

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