ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第11号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp

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もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年4月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第11号(2008年1月)
●「どこまでもやさしく


もくれんの家で新年会
2008年1月1日(火)


自己責任などとつっぱねられても弱い者は困ってしまう。キラキラ舞台で輝く者のある一方、弱い者は自分のみじめさに閉じこもってしまう。
人間社会のトラブルは、弱きがゆえに真っ暗になってしまうところから出る。
愛の光なくしては弱い者は浮かばれない。
弱い者を当惑させる自己責任という決め付けは残酷だ。
みんなちがってみんないい、という真実も、誰にも優しい光が当たってこそ反応する。
(八木ヶ谷 妙子)

●「もくれんの家」の4年半を振り返って 

 新年、明けましておめでとうございます。
 NPO法人「共に生きる交際交流と福祉の家(もくれんの家)」(2003年4月発足)は本年4月で満5歳の誕生日を迎えることになります。手探りで始めたNPO活動でしたが、今では「もくれんの家」といえば知る人ぞ知る存在に育ちつつあります。
 もくれんの家の大きな2本柱は、国際交流と福祉です。共通の横糸は「誰もがいきいきと暮らせる社会」。さまざまな人の知恵と力が結集することで、限りない可能性が見え始めています。

中国、韓国・朝鮮はじめ世界の人々との国際交流
 「国際交流活動」は、中国から韓国・朝鮮、また在日・滞日の中国人、韓国・朝鮮人はじめ外国人との交流を広げ、深めることが出来ました。身近な人との心の通った交流が一番の基礎と考えています。毎月の「ニーハオ・アンニョン」パーティーを温かい集まりにしながら、さまざまな交流・学習の企画を計画しています。皆さん、どうぞご参加ください。

安心を運ぶ「移送サービス」の成長
 「移送サービス」の方は現在、運転協力員11人・車両10台が百人以上の方々の通院や外出、通学を支えるまでになり、立派な一つの事業に成長したといえます。
 それだけに課題も大きくなってきました。なんといっても安全・無事故のための努力が一番です。そして、運営・コーディネート体制の強化が求められています。また、本当に移動手段として利用が必要な方に利用しやすい運賃・システムも再考の時期に来ています。現在、検討中です。
 ところで、私たちボランティア団体にとって一番頭がいたいのは資金のやりくりです。皆さんの声を結集して、杉並区に責任ある態度を要求しつつ、真に実りある移送サービスのあり方を追究していきたいと考えています。
(茅原(ちはら))
●ニイハオパーティ野外篇第一回
 国立(こくりつ)・歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)を見学



歴史民俗博物館を見学する前に
船橋市在住の平形千恵子さんから
説明を受ける



博物館の五つの展示室には、原始・
古代から近現代までの日本の歴史・
文化が、さまざまなテーマで資料や
模型・ビデオ映像などが揃えられて
いる。部落解放闘争(戦前の水平社
のたたかい。写真)やアイヌ民族の
歴史なども紹介されている

 10月13日(土)、歴史民俗博物館を見学しました。この日は秋晴れの穏(おだ)やかな日、小高い丘の上の博物館はゆったりとした規模の大きい建物で、まずびっくり。入り口で「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査実行委員会」の平形千恵子さんと大竹米子さんが出迎えてくださいました。この日の行動には「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相を究明する日韓在日市民の会」(下のコラム参照)の準備会で知り合った鄭宗碩(チョンジョンソク)さんも参加されました。
 まずは講習室で学習。地図と写真を使った平形さんの訴えは静かな口調でしたが、地道で真相に迫るまでの大変さと、虐殺がなぜ可能だったのかという怒りに溢(あふ)れたものでした。
 学習を終えて、さっそく「関東大震災コーナー」を見学。作家の千田是也(せんだこれや)さんと八木ヶ谷さんの証言などが収められていました。お二人のリアルに語るその口調は胸にドスンときました。また、当時見聞した子供たちの絵もいくつか紹介され、いずれもジーンと訴えるものがありました。何故(なぜ)、「朝鮮人・中国人虐殺」などというむごいことが出来るのか? 朝鮮植民地支配下で、何をしてもいいという侵略思想は「東亜」の思想として、軍という強制力が背景にあるのだろうか? ふと、沖縄を思い出す。これも結局、軍命なのだ。
 見学を終えて阿佐ヶ谷に戻り、平形さん、大竹さん、鄭(チョン)さんを迎えて「もくれんの家」で恒例の「ニイハオ・パーティ」。話が尽きないほどでした。重い課題だけれど、まずは知ること、伝えること。そして追求していくことから、「必ず変わる」、それを改めて実感しました。
(伊藤登美子)

●「ニイハオ+アンニョン」へ
 パーティ最新情報etc.


新しい仲間を迎えて
「ニイハオ・アンニョンパーティ」
 2007年12月8日(土)

■12月8日(土)、07年最後のニイハオパーティが「もくれんの家(八木ヶ谷邸)」で開催され、今回は鍋2種を囲んで美味しい忘年会となりました。中国だけでなく韓国との交流も深まっていることを受けて、この日、提案があり、一同大賛成で「ニイハオ+アンニョン(中・韓のコンニチワ)パーティ」への改名が決定しました。
■新年第一回のパーティは1月12日(土)伊豆大島で開催。八木ヶ谷が約50年前から通い続けてきた家に泊まり、大島の人々と交流します。韓国の平和団体アヒムナ代表金鐘洙(キムジョンス)さんも参加する予定で、日中韓、交流の輪をひろげます。
■07年9月ソウルで開催されたシンポジウムを受けて、八木ヶ谷も発起人のひとりとなった「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相を究明する日韓在日市民の会」が11月発足しました。研究者、市民活動家などが集結して08年9月の85周年に向けて活動を開始しました。詳しくは角取(かとり)までお問い合わせを。
(e-mail :katori1@ra2.so-net.ne.jp/
 Tel:080-6707-6398)
(角取(かとり)明子)

●宮川珠子(みやがわたまこ)の世界旅行D
 (エジプト編A)

『会報 もくれんの家』の6号(2006年10月発行)から始めたシリーズの5回目は、エジプト編の2回目。ルクソールから南に約200qのアスワンの街まで、そこからカイロまで、です。

 2006年4月4日、ルクソールから電車でアスワンへ向かいました。川幅約500メートルのナイル川の中の小さな島(エレファンティネ島)のホテルに専用ボートでチェックイン。旅の疲れを癒し、レストランで昼食をいただいた後、20人くらい乗れる帆掛け舟で、川下の方向へ、ゆったりとナイル・クルージングを楽しみました。
 4月5日、アスワンの町から南方12kmの地点にあるアスワンハイダムの見学にタクシーで出発。アスワンハイダムは幅3600メートル、高さ111メートル、体積は2億379万立方メートル(東京ドーム約164個分)もある巨大なダムです。1970年にドイツと旧ソ連の協力によって完成した、エジプトが誇る巨大建築です。ここから上流に向けて全長550kmに及ぶ人造のナセル湖が続いています。面積は琵琶湖の7.8倍といわれています。エジプト・アラブ共和国第二代大統領のナセル(1918〜70年)の功績をたたえて命名されたことは良く知られています。
 ハイダムからボートでフィラエ(アギルキア)島に行きました。フィラエ島は古代エジプト末期王朝時代からローマ支配時代にさまざまな神殿が建てられ、教会の遺跡もあり、聖なる島とされていました。
 この美しい神殿群も、アスワンハイダムが出来ると水没する運命にあったので、隣の現在地アギルキア島に移転され1980年に完了したとのことでした。神殿群を見学したのち、いったん、タクシーでアスワンへ戻り、今度は、独自の文化を誇るヌビア地方(色黒でちぢれ毛をもつヌビア人の風貌は旅行者でもはっきりと見分けがつくほどエジプト人とは異なるそうです)に向けてボートでナイル・クルージングを楽しみました。川の中には大小いくつもの島がありました。川の東側はほとんど砂漠です。
 船着場の近くの石段に腰掛けていた小学校4〜5年生くらいの女の子たち4〜5人は、人数の少ない田舎の村にやってきた外国人のお客様に、ニコニコ顔で大歓迎です。川にそった小さな田舎の家並みを、ぐるりと一回りして船着場に戻ると、先ほどの子どもたち一斉に「サラバジャ」と挨拶するのです。日本人旅行者がいたずら半分に教えたものと思います。英語は通じるので、孫娘に説明させ、今度はちゃんと「さようなら」と、見送ってくれました。
 川べりの砂漠の道を、お客さんを乗せたラクダの長い行列が上流の方へ進んでいくのが見え、エジプトらしさを感じたことでした。
 夜汽車でカイロへ行き、翌6日、エジプト考古学博物館を見学。ツタンカーメン王の秘宝やラメセス二世のミイラ等、とにかくすごい数の掘り出し物を見るにつけ、エジプトの歴史の古さを思い知らされ、心から感動してしまいました。
(続く)

●移送サービス部からの報告

一年間の労をねぎらい、来年にむけ
ての英気を養った楽しい忘年会(たま
たま、赤穂浪士が討ち入った前日の
12月14日。阿佐ヶ谷のおそば屋で)

 2007年の移送サービスは無事故で終えることが出来ました。運転協力員の皆さんの並々ならぬボランティア精神と熱意の賜物(たまもの)です。利用されている皆さんからも「今年一年本当に助かりました」という言葉をたくさんいただきました。まことにありがとうございました。

老舗(しにせ)「友愛の灯」が、残念にも移送サービスを中止することに
移動困難者が外に出られるようにという要求から始まった移送サービスですが、全国的にもいち早く取り組まれたのが「友愛の灯協会」でした。大先輩として多くを教わりながら共に歩み、私たちの心の支えでもありました。その友愛の灯が、今年3月いっぱいで移送サービスを止(や)めることになったそうです。ここ数年の著(いちじる)しい区の補助金カット、国交省の締め付けが大きな理由と思われます。大先輩の撤退は、区内の同業者にも大きな衝撃となっています。

「もくれんの家」らしく
 2008年2月は「もくれんの家」の移送サービス事業の更新手続きが運営協議会にかけられます。料金設定も含め今後2年間続けることが出来るかどうかの協議です。ニーズが増える中、本当に必要とする方に利用していただけて、なおかつ事業としても成り立つあり方が課題となっています。「もくれんの家」がしっかり責任を取り、他にはない「もくれんの家」ならではの移送サービスにしていきたいものです。皆様の知恵とお力をぜひとも貸しください。よろしくお願いいたします。
(茅原(ちはら)まり)

●「在日韓民族無縁の霊碑を守る会」の慰霊式(第8回目。9月5日)に今年も参加



ソプラノ歌手・金貞玲(キムチョンリョン)
さん(ソウル出身。韓日女性親善協会理
事、日韓女声合唱団指揮者などをつとめ
る)が『帰りたい(カコバ)』を献歌



金順子(キムスンジャ)さん(宮城県
出身の在日二世。在日韓国人文化芸
術協会・副会長。別名「裸足の舞踏家」
と呼ばれている)が鎮魂の舞


 通称、高麗(コマ)神社の名で親しまれている埼玉県飯能(はんのう)市の聖天院(しょうでんいん)でおこなわれた恒例の韓国人慰霊祭に八木ヶ谷、宮川、福田、片岡、俣野(またの)の5人で参加しました。
 当日は台風が近づいて来ていたにもかかわらず、参加者たちの強い希望により、屋外の韓国式祭壇の前で、短歌の朗読と舞踊が奉納されました。特に踊り手の「暑い寒い、雨だ風だというのは生きている人間の感情で、私は慣れていますから」と言ったあと、披露された舞は力強く迫力があり印象に残りました。
 終了後、近くの食堂に移動し、昼食の膳を囲みながらの交流会となりました。
 「もくれんの家」に入会して感じたのは、本当に貧しい人は文化的に貧しいということだが、他の会の人たちはこの1年間に絵を教えたり詩を作ったりとさまざまな文化的な活動に取り組んでおり、刺激を受けました。
 私たちも見習って、「援助する・される」関係を超えるような活動を通じて、自立していくべきだと感じました。
(俣野美代子(またのみよこ))

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