ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第12号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年4月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第14号(2008年10月)
●目撃を語り継ぎ、ともに未来を開こう
八木ヶ谷(やぎがや)代表が「関東大震災85周年虐殺被害者慰霊祭」で証言 



八木ヶ谷さんの証言がきっかけで
1995年2月に建てられた慰霊
碑の前で証言する八木ヶ谷
(八千代市萱田中台(かやだなかだい)の共同墓地にて)


 「ここで私が発言しないわけにいかない!」―94歳の八木ヶ谷妙子さんは、おもむろに立ちあがって語り始めました。9月7日(日)、千葉県八千代市観音寺でおこなわれた「関東大震災85周年虐殺被害者慰霊祭」に目撃者として参加したのです。「もくれんの家」からは計8人が参加しました。
 この慰霊祭は1983年、関東大震災60周年を機に地元の人々を中心に始められ、今年26回目を迎えたものです。デマと戒厳令下におこなわれた朝鮮人・中国人虐殺(そして大杉栄や川合義虎など日本人社会主義者・労働運動活動家の虐殺)の真相は未だに全容の解明もされず、政府の責任も明らかにはされていません。それを明らかにしたいと各地で地道な聞き取り調査、歴史の掘り起しがおこなわれてきました。しかし6000人以上と言われる朝鮮人犠牲者の大多数は名前さえ分からず、いつどこで、なぜ、誰によってその命を奪われたのか、どこの出身でどうして日本に来、どんな生活を強(し)いられていたのか、詳しいことは分かっていないのです。
 その中で八千代市では地元の市民、研究グループ、在日朝鮮・韓国人の方々などの尽力で、村人の重い口が開かれ、貴重な事実が明らかにされ、数箇所の慰霊碑が建立(こんりゅう)され、毎年9月に慰霊祭が営まれてきたのです。
 震災当時9歳(小学校4年生)だった八木ヶ谷さんは、黒ずんだ丸首シャツの見知らぬ一人の朝鮮人青年が村の共同墓地にある松の木の穴の前に、後ろ手に縛られ目隠しされて立たされ、その命の灯を消される、まさにその直前の場面を目撃し「殺される!」と泣き叫びながら墓地の坂道を走り帰ったのでした。
 85年の歳月を経(へ)てその地に立ったとき、その光景が鮮明によみがえったのでしょう。「確かに見たのです。誰が、なぜ、生きている人間を目の前で殺さなければならないのか?! 今も叫ばずにおれない。誰がどうしてそんなことをさせたのか。その根性はどこから出てきたのか。はっきりさせずにおれない。誰が何と言おうと、ただ一人残っても目撃したことをこうして語る。それは誇りです。いま、日本はどこに行こうとしているのか?! 申し訳なかったと大きな声で謝り、明日に向かっていかなければならない」。「ありがとうございました。同胞に話します」「今日の話を語り伝えます。ともに明日を開いていきましょう」と数人の方が駆け寄って固く手を握り合いました。
 (茅原(ちはら))


泣きながら走って下(くだ)った墓地の脇の坂道


●<インタビュー>「関東大震災85周年 朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」開催さる
 実行委員・高橋伸子(たかはししんこ)さんに聞く

 2008年8月9日(土)、「関東大震災85周年 朝鮮人犠牲者追悼シンポジウム」が在日本韓国YMCA(東京・千代田区)で開催された。会は、虐殺された朝鮮人(6000人以上ともいわれている)・中国人(数百人といわれている)・日本人社会主義者と労働運動活動家、ならびに8・6ヒロシマ、8・9ナガサキ、そしてすべての戦争犠牲者に黙祷をささげて開始された(プログラムは別掲)。「もくれんの家」の会員も参加し、代表の八木ヶ谷が9歳のとき目撃したことを生々しく証言した。事件の真相解明と名誉回復、そして日本国家の責任の明確化に向けて新たな一歩を確実に歩みだした。後日、シンポジウムの主催者の一人である高橋伸子さん(1959年、山形県生まれ。「アジアハウス」代表【注】)にお話をうかがった。
 (片岡)



シンポジウムの会場、在日本韓国YMCAは1919年2月8日
在日朝鮮人留学生約600人(在京の学生のほとんど全部)が
「独立宣言」をおこなった歴史的な地。
看板の後ろに「朝鮮独立宣言一九一九、二・八記念碑」が見える 


――シンポジウムが「朝鮮独立宣言を発したYMCA」でおこなわれたこと自体にとても感動しました。総括、報告者や参加者の感想、取り組みにいたる経過などをお聞かせください。

高橋 約280名の参加でした。そのうち、韓国からの訪日団が20名ほど、在日の人々が百数十名でした。趣旨に賛同されたYMCAからも「ぜひ、ここでやって欲しい」と言われました。
 「関東大震災時における朝鮮人大虐殺」は韓国ではほとんど知られていません。日本では研究はし尽くされていると言えますが、まだまだ知られていないし、国家責任の問題としては、閉ざされています。そこで、「韓国の状況を変えよう」と昨年9月と今年3月にシンポジウムを開催し、日本でももっと知らせること、真相のさらなる解明と国家責任をさらに明確にすることを目的に開催しました。
 講演された徐紘一(ソグェンイル)さんは3・1独立運動の研究者で、日本の関係場所などは隈(くま)なく歩いてきた人ですが、「3・1運動を震災時における大虐殺と結びつけて考えることが全(まった)くなかった」と言っていました。また、姜徳相(カンドクサン)さんは「今までさんざん韓国側に問題提起してきたがムダだった」と、在日の歴史を知ろうとしない韓国の現状に怒っていました。しかし、韓国側も少しずつ動き始めたのが目に見えてきたし、日本でも朝鮮総連や民団の違いを超えて多くの在日が参加したことに希望の光を見出しているところです。参加者からも「3・1独立運動から震災を見る視点を与えられた」「朝鮮人大虐殺と同時に労働運動への弾圧でもあり、日朝人民の連帯を断ち切るための弾圧であったことが分かった」「八木ヶ谷さんの証言に感動した」などの声がありました。


質疑応答の場面。
左から松尾、徐(ソ)、山田、姜(カン)、琴(クン)さん


――ところで、この運動にかかわったきっかけは何ですか?

高橋 父が労働運動の活動家だったこともあって、父に連れられて子どもの時からメーデーなどにも参加したりして社会問題に関心がありました。天皇制は廃止した方が良いなどと家族で話し合ったりしていましたが、朝鮮植民地支配や震災時での朝鮮人虐殺などは山形ではほとんど知られておらず、これらに触(ふ)れることは全(まった)くありませんでした。ところが10年ほど前に、東京都日野市の教育委員長が市立中学校の入学式の祝辞のなかで、朝鮮人や障がい者に対する差別発言をおこなったことがあり、それに対する糾弾闘争に関わることになったことがきっかけです。

――今後の取り組みは?

高橋 来年の3月1日前後に韓国の3・1運動記念館で姜徳相(カンドクサン)さんの講演と、韓国の遺族の方のお話しを聞く会を実現したいと思っています。日本でも、労働運動や市民運動などさまざまな方面に、ゆるやかにつなげることをめざしていきたい。そして、日本政府に対してきちんと責任を取らせることだと思っています。あの事件はただ単に「日本人が差別的で愚(おろ)かだった」ということだけで起きたわけでは無い。軍隊が直接に手を下すと同時に民衆にやらせているわけです。遺族の方と連絡を取り日本国家の責任を追求していきたいと思います。

――ありがとうございました。「もくれんの家」も共に取り組んでいきます。


声明文を読み上げる金鍾洙(キムジョンス)さんと高橋伸子さん(左)

【注】アジアハウス
 次世代の主人公である子ども達が平和について考え学び、さまざまな国の人々との交流活動を通してアジアの歴史を共有し、明るい未来を創造する力を身につけることを目的として、2007年8月に、多くの外国人が暮らす東京新宿大久保の地域に開設。10年ほど前に高橋がドイツを学習旅行した時、ヨーロッパハウスに出会う。第二次大戦直後、侵略した側のドイツの教育労働者がオランダの牧師に呼びかけ当初は猛反発を受けたが、やがて「青少年の交流の場」としてヨーロッパハウスを開設した。これを学んでアジアハウスを開設した。


シンポジウムのプログラム
      司会・田中正敬(専修大学准教授)
10:00 韓国SBS制作「嗚呼 関東大震災」上映
10:45 開会の辞 松尾章一(法政大学名誉教授)
11:00 徐紘一(ハンシン大学国史学科教授)
     「3・1運動とその後の植民地統治の実相」
11:50 山田昭次(立教大学名誉教授)
     「朝鮮人虐殺事件の歴史的意味」
12:15 休憩(昼食)
13:00 姜徳相(滋賀県立大学名誉教授)
     「虐殺 再考、戒厳令なかりせば」
13:50 琴秉洞(朝鮮大学校図書館元副館長)
     「朝鮮人虐殺に対する日本側と朝鮮側の反応」
14:40 休憩
14:50 山田昭次
     「朝鮮人虐殺事件の国家責任・再考」
15:15 演奏 ミナク(民族楽器重演団)
15:35 質疑応答・声明文採択
16:45 閉会の辞 西澤清(日教組中央元副委員長)

今年もまた「在日韓民族無縁の霊碑を守る会」の第9回慰霊式に参加
 上記の慰霊祭が9月5日(金)、埼玉県日高市の聖天院(しょうでんいん)勝楽寺で例年通り多くの方の参加を得て、しめやかにおこなわれました。献歌のあとの金順子(キムスンジャ)さんによる朝鮮の伝統的民族舞踊に深い感銘を覚えました。

8・6ヒロシマ行動に参加して
伊藤登美子
 イラク侵略戦争が今も続く中、「世界の労働者の団結で核と戦争をとめよう」と呼びかけられた「8・6ヒロシマ、8・9ナガサキ大行動」に参加した。この行動は既成(きせい)の原水禁運動をのりこえようと、10年前から取り組まれているものだ。63年前の、あの閃光(せんこう)と灼熱(しゃくねつ)の中を生きてきた被爆者は「死ねというのか」「生き抜いてやる」と怒りを訴えていた。
 この行動には、高校での募兵活動に反対する運動を取り組んでいるアメリカの教育労働者アーリーン・イノウエさん(日系3世)が参加した。昨年7月、アメリカの教組大会の会場で「日の丸・君が代」不起立で不当にも処分された根津公子さんの解雇阻止署名で知りあった女性だ。彼女は昨年の11月労働者集会に来日し、文科省・都教委に抗議し、日教組にも「根津さん支援」の要請をしてきた。たった一年間で日本のたたかいとアメリカの運動がひとつになって、根津さんの解雇を阻止できた。フランスやイギリスの労働者も動いた! やはり11月集会に毎年参加してきたアメリカの港湾労働者が今年のメーデーでイラクの労働者とつながった! 韓国・民主労総も11月集会には毎年参加している。全世界の労働者がストライキで新自由主義と闘っている。核と戦争を止める力はここにある。ヒロシマから全世界に発信したのだ。
 一人一人を分断し競争させ切り捨てる政策には、現場から、ひとりから、闘いをはじめることが仲間とつながり、社会を変える力をつくり出す。今年の11月集会にはロサンゼルス労組連の労働者も参加するという。労働者がひとつになることは素晴らしい。わたしたちも団結しよう!
 動労千葉などが呼びかける11月集会【11・2 全国労働者総決起集会 11月2日(日)正午開会。日比谷野外音楽堂 集会後にデモ】に参加しよう!

●7月「ニイハオ+アンニョンパーティ」
中国・貴州(グイチョウ)大学教授、楊志強(ヤンツーチャン)さんから
「中国における少数民族について」を学ぶ
阿佐ヶ谷在住
野間光夫(29歳)



25人の参加者を前に、白板を使って熱弁をふるう楊先生。
質疑応答も活発におこなわれた。
楊先生は交流会で、得意のハーモニカ演奏を披露した


 楊教授の話では、まず民族というものは昔からある普遍的考え方ではなく、西洋近代の思想が中国に入ってくる中で、近代国民国家が形成されていくのとともに定められたものだと教えられた。民族を区別するのは人種か、言語か、宗教・習俗か、居住地域か、必ずしも単純明快ではない。少数民族と呼ばれる人々にもさまざまなアイデンティティの揺らぎがある。こういったことは日本人の僕にはなかなか理解しづらい。
 中国での圧倒的大多数は漢民族で約91%。他の55民族が8%強。漢民族は仮説的な血縁集団をアイデンティティとする、という。伝統的な漢民族による少数民族統治は、少数民族のエリート層を儒教文化によって「教化」し、彼らを通じて間接的に統治する。共産党時代になってからは、貴族による過酷な民衆支配を廃止し、近代的な制度を定めつつ、エリート層の育成を進めた。
 少数民族の「確定」を人工的におこなったのもこの頃。例えば、ミャオ族自身にはそもそも自分が「ミャオ族である」という認識はなく、外部から命名されたものだという。
 現在も少数民族差別はあるが、チベット問題の場合、チベット自治区内に他の少数民族もおり、自治区外に住むチベット族も多く、またチベット族そのものも単純に一つのものではないので、複雑だ。そこに経済格差の問題が加わり、西洋諸国の内政干渉が中国人のナショナリズムをますます刺激するという事情もある。高度な理解力が必要とされる。
 私としては、外から与えられた民族アイデンティティが、他の民族との不和や対立・差別を生むとしたら、皮肉な話だし困ったことだと思う。階級社会についての視点を持って民族問題を考えることも必要になってくるかもしれない。
●中国・四川(スーチョアン)大地震支援活動の報告@
 義捐(ぎえん)金へのご協力ありがとうございました。まとまった金額(約15万円)となりましたので、可越(クウイエ)さんに手渡し、託しました。引き続き取り組みますので、よろしくお願いいたします。

●お知らせ
◆「もくれんの家」は、毎月の第二土曜日・午後4時から「ニイハオ+アンニョンパーティ」を開いています。
◎10月と12月は特別企画です(いずれも通常と日時が違うのでご注意を)

●10月11日(土)
『ウリハッキョ』(『私たちの学校』。北海道朝鮮学校生徒たちの感動のドキュメンタリー)上映会。
会場・あんさんぶる荻窪(JR荻窪駅西口下車徒歩3分)。
午後2時から(時間に注意)。
問い合わせ先は03(6676)1188
※ 10月11日の『ウリハッキョ』(『私たちの学校』。北海道朝鮮学校生徒たちの感動のドキュメンタリー)上映会は、50人の参加者を得て好評のうちに開催されました。

●12月6日(通常は第二土曜日におこなうのですが、この日は第一土曜日です。ご注意を)
『李吉純(リギルスン)さん(朝鮮風居酒屋「韓伽羅」のマスター)が「枝川、ウリハッキョ」を語る』。
会場・もくれんの家。
午後4時から
(午後6時30分ころから交流会、そのあと「韓伽羅」で二次会をおこないます)
◆資料代:300円 交流会費:500円
李吉純(リギルスン)さん
 1941年、4人きょうだいの末っ子として東京で生まれる。両親は忠清北道(チュンチョンブクト)(現在の韓国)の出身で、結婚後まもなく「食えなくなって」渡日、名古屋に住む。その後、一家は上京し、父は日本橋で理髪店を営む。東京大空襲で埼玉県に疎開。1945年8月15日(日本の敗戦。朝鮮の解放)を迎え、練馬に移る。李吉純さんは日本の小学校に入学するが、その後、枝川の朝鮮第2初級学校に入る。1952年の「血のメーデー」に参加し、数ヵ月後に取り調べを受ける。明治大学に進学したころ、父と吉純さんを残して一家は共和国へ帰国。1985年に「韓伽羅」を開く。三軒目になる。「以前、朝鮮人であることを隠して店をやっていたんだけど、いろいろあって結局二軒とも失敗しちゃって。それで女房とも話しあって、これからは隠さずにやっていこうと考えて今の店を開いた」という。お店の壁には朝鮮の民芸品が飾られている。韓伽羅の名物「チゲ鍋」は最高にウマイ!

●移送サービス部の報告
*暑い夏場は体調をくずされる高齢者も多く、臨機応変な対応が求められました。運転協力員の皆さんのご協力と熱意で無事運行をおこなうことができました。ありがとうございました。4月〜8月末までの運行回数は約2400回でした。
*8月4日には恒例の「暑気払い」をおこないました。94歳の八木ヶ谷代表も参加、皆さんの「やる気」にすっかり感服。楽しい会となりました。
*8月から新料金に変わり、若干の値上げとなりました。諸物価高騰、暮らしにくい時だけに心苦しい限りです。単位距離もこれまで以上に細かな区分となり事務手続きも煩雑になりましたが、大きな混乱も無く運営できています。
*「もくれんの家」の移送サービスの終了予定を区の担当者、移動サービス情報センター、他事業者の方などにもお知らせし、移行の準備を始めています。引き継いでくださるNPOも設立総会を終え、都に申請中です。

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