ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第23号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

 ●第22号
(2010年7月)

 ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第23号(2011年1月)
もくれんの花は
いつも上を向いて
みんな揃って咲き誇ります
その「負けないぞ」という
誇り高い花の名こそ
我が集団の本当の意味です

   理事長 八木ヶ谷 妙子(九八歳)


1月15日 新年会

●地域に根ざし、時に怒り、喜び、ジャンプ!!

 新年明けましておめでとうございます。昨年は孤独死、無縁死、幼児虐待など、人と人のつながりの希薄さを痛感させられる辛いニュースが続きました。しかし、一方で、こうした理不尽や社会のあり方を変えようと立ち上がっている人々がいるのも確かな事実です。
 「共に生きる」を標榜する「もくれんの家」。毎月の例会「ニイハオ+アンニョンパーティ」ほか、多彩な行動を実践しながら、ぬくもりと真摯に学ぶことのたいせつさを知る1年となりました。

在日・滞日の人々とつながって
 新しいつながりとしては5月に滞日19年になる難民認定申請中のビルマ人Hさんをお迎えして、滞日外国人や入管収容所の実際を詳しく聞くことができました。品川の収容所で行われている面会行動にも参加し、クルドやコンゴなど、さまざまな問題を抱えた収容者の皆さんと触れ合い、外国人への排他的で非人道的な処遇を目の当たりにすることになりました。
 これは在日朝鮮・韓国人への政府の施策についても同じです。「高等学校無償化」から朝鮮学校を排除するという法案に反対し、交流を深めている朝鮮学校の皆さんと共に署名集めに駅頭に立ちながら、なぜ、このような無法、無思索な政治が行われているのかと怒りをおぼえました。
 「もくれんの家」が取り組んでいる課題のひとつ、関東大震災の朝鮮人虐殺の問題については、長年調査・追悼を続けてきた「グループほうせんか」のみなさんの案内で墨田区の虐殺現場を巡るフィールドワークを実施することができました。また、東村山市にある国平寺を訪ね、住職から「なぜ、日本に朝鮮のお寺があるのか? ―韓国強制併合百周年に際して―」という貴重なお話を聞くことができました。

楽しく親しみやすく
 楽しい企画も実現。ジャズピアニスト、ケイコ・ボルジェソンさんを迎えて、八木ヶ谷妙子代表の誕生日に阿佐ヶ谷の朝鮮第9初級学校の子供たちにコンサートをプレゼントすることができました。
 「もくれんの家」は杉並区阿佐ヶ谷の地に根ざして、時に手料理と身近な話題で舌鼓をうちながら、生まれ故郷の話をしたり、旅の土産話をしたり、本当に「家庭的」な集まりを開催してきました。誰もがフラッと参加できる「敷居」の低い、親しみやすい活動を続けていきたい、それが、時に怒りや喜びを込めてジャンプし、野外企画やイベント開催になるといい、と感じています。八木ヶ谷代表がいつも謳いあげる「生きる喜び」「共にあることの強さ」を心に刻みながら。これからもご支援、ご協力、ご参加をよろしくお願いいたします。
(角取(かとり))

●「朝鮮と日本が平和なら、朝鮮のお寺・国平寺(こくへいじ)は要(い)らない!」
 ―国平寺(こくへいじ)(東京都東村山市)ご住職・尹碧巌(ユンピョガム)さんのお話に感銘!

 「きょうのタイトル『なぜ日本に朝鮮のお寺があるのか? ―韓国強制併合百周年に際して―』は私がつけました」「なぜ、日本に朝鮮のお寺があるのか? それは朝鮮がいまだ平和ではないからです。そして日本が平和ではないからです」「南北に分断されている朝鮮が統一され、日本が平和な社会になれば国平寺は要(い)らないのです!」―国平寺のご住職・尹碧巌(ユンピョガム)さんはこう切り出して、合計2時間ほど熱く語りました。胸にずしりとくる課題を、独特のユーモアをまじえてのお話に22名の参加者は聞き入りました。
(片岡)

 

「小平市民の会」と出会って
 昨年最後の「ニィハオ+アンニョン・パーティ」は阿佐ヶ谷を飛び出して国平寺を見学し、尹(ユン)さんのお話をうかがいました(12月11日)
 昨年、菅・民主党政権が高校無償化から朝鮮高級学校だけを排除することに対して全国で反対運動が起こりました。もくれんの家も「新たな民族差別反対! 在日朝鮮人民との連帯と団結を」と、在日の皆さんと一緒に署名活動に取り組んだり、集会・デモに参加してきました。こうした活動の積みかさねの中で、「朝鮮初中級学校を支える小平市民の会」(代表・金俊一(キムジュンイル)さん)との新しい出会いがありました。「今度、もくれんの家と小平市民の会とで交流会をもちましょう」という話が持ち上がり、「いいですねぇ! それなら、もくれんの家が国平寺を見学する時に交流会をおこないましょう」と話が発展し、この企画が実現したのです。

金百植(キムペクシク)さんの話に胸が痛む
 
金百植(キムペクシク)さんの骨箱が
収められていたロッカーを見学。
左が尹(ユン)さん。右は 小平市民
の会の金俊一(キムジュンイル)さん

 尹(ユン)さんは次のように語りました。「国平寺を譲り受けるにあたっては、民団(大韓民国民団)が金を出し、朝鮮総連が同胞の遺骨収集を全国に呼びかけてくれました」。
 「ある日、武蔵野病院から電話がありました。朝鮮籍の男が死んだので引き取ってくれないか、というのです。元帝国陸軍二等兵・金原百植(きんぱらひゃくしょく)、本名は金百植(キムペクシク)、京幾道(キョンギド)の出身です。引き取った上で韓国に住む弟さんに連絡すると『遺骨は引き取れない! 兄は望んで日本兵になったわけではないが、しかし、わが民族に銃を向けたんだ!』と、最初は遺骨引取りを拒否しました。この話は朝日新聞に掲載され(2004年3月28日)、韓国MBC放送が同年8月14日に放映しました。「『兄を強制的に徴兵しておきながら、60年間も連絡一つしてくれなかった日本が憎い』と、弟さんは悲しみと怒りを語っていました」
 また、朝鮮戦争時、アメリカ軍が「共産主義者をかくまっているだろう」と朝鮮半島の寺すべてを焼き払いに来た時に、座禅をしたまま絶命した漢巌(ハンアム)さん(柳宗黙(ユジョンムク)さんの師)のお話、さらに「四苦八苦」「自殺」「陰と陽」「祭祀(チェサ)と法事の違い」などなど、色々と考えさせられ、また興味深い話など多々ありましたが、ここでは省略させていただきます(尹(ユン)さんのお話の全部は後日発行予定のパンフレットで紹介します)。


握手する尹(ユン)さんと
八木ヶ谷代表

 
漢巌(ハンアム)さんの書いた書     祭祀(チェサ)の説明

 交流会は金俊一さんの経営する「平和亭」でおこない、おいしい焼肉とマッコリを楽しみました。

侵略戦争が迫ってきたからこそ
 数日後、ご住職に改めてお礼にうかがったところ「11・23延坪島(ヨンビョンド)における南北朝鮮両軍の砲撃戦によって、アメリカ帝国主義による朝鮮侵略戦争の危機が迫ってきたからこそ、朝鮮と日本の過去と現在を皆さんに考えてもらいたかったのです」とおっしゃっていました。尹碧巌(ユンビョガム)さん、金さん、ありがとうございました。どうぞこれからもよろしくお願いいたします。

国平寺(こくへいじ)
 本山は約三百年前、徳川幕府8代将軍徳川吉宗(よしむね)(1684〜1751)により建立されたという由来がある。そして約80年前に朝鮮から日本に渡来した高僧・柳宗黙(ユジュンムク)大禅師は仏縁によりこの地に立ち寄り、荒れ果てた堂塔を目にして嘆き、ここに、日本から故郷に帰ることが叶わなかった朝鮮人の遺骨を集めて供養したいとの思いで、この寺を引き受けた。その後、日本各地を歩き集骨し、その御霊を慰めるための供養塔も建立した。1965年に「祖国の平和統一を願う」想いから祖国の「国」と平和の「平」の文字を取って「国平寺」と名付けた。
 現在の三代目住職の尹碧巌(ユンピョガム)さん(1956年、京都に生れる)は「大禅師の志を受け継いだ尹一輪(ユンイルユン)和尚は、朝鮮と日本の不幸な過去の歴史を再び繰り返さないように、そして両国間の真の友好親善のために尽くされました。先々代、先代の志を継ぎ私も仏道に励み精進する」「寺は亡くなった人の供養のためだけではなく、生きている人のためにもあります」と語っている。在日朝鮮人民の民族教育にも尽力され、2007年には国連人権委員会で「朝鮮人強制連行」や「在日の人権」をアピールした。

●「在日朝鮮人民と共に」 星野暁子

 日本に国平寺という朝鮮の寺がなければ、引き取り手のないお骨がたくさんあるという事実に胸がえぐられました。国平寺の歴史は、朝鮮と日本の歴史そのものです。野ざらしになっている強制連行されてきた朝鮮人の遺骨収集は、これからも、もっと必要です。
 私の夫・星野文昭は1971年11月14日、日本の戦争体制、沖縄の米軍基地の再編強化に反対する東京渋谷のデモに、リーダーのひとりとして参加し、機動隊員が一名死亡したことで無期懲役刑をでっちあげられました。獄中36年の冬を徳島刑務所で迎えています。
 交流会でそのお話をすると、向かいに座っていた鄭宗碩(チョンジョンソク)さんから熱い握手を求められました。「星野さんの獄中36年は統一を求めてたたかう在日の36年と重なる」と鄭さんは話されました。「無念の36年―しかし、その『しかし』が大きい」と。在日朝鮮人民と共に、解放に向けて闘ってきた36年だったと、改めて認識した瞬間でした。

●「朝鮮のお寺・国平寺を訪ねて」 牧江壽子

 住職のお話を伺い、お寺を見せていただき、その奥の深さ、人間の営みの偉大さに衝撃を受けました。
 日本兵として徴用され、戦地で精神障害になり、55年間、武蔵野病院で闘病された金百植さんの遺骨がご住職の尽力でご遺族に引き渡されたというお話に、あらためて侵略の歴史を絶対繰り返してはいけないと深く胸に刻みました。そして一人一人の人生を本当に大切にする人間の生き方に感動しました。
 お寺の建築は徳川吉宗の時代のものと朝鮮の寺院が合体したもので、仏像もたくましく優美で、落ち着きとはなやかさとやさしさにつつまれ離れがたい気持ちになりました。
 講演と見学のあと交流会がもたれました。すご〜くおいしい焼肉を食べながら、すばらしい歌声も響き、楽しく元気のでるひとときをすごしました。

●「1923市民の会報告」ご支援お願いいたします

■「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日韓在日市民の会(「1923市民の会」)」は、会の活動の方向性を明らかにし、広く運動を展開していくために、新たに「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」を発足させることを決定、昨年9月24日に設立総会を開催しました。
■日本政府に以下を求めていく活動です。「責任を認め謝罪し、必要な措置をおこなうこと」「犠牲者やその遺族についての調査をおこなうこと」「虐殺事件の調査結果と資料の恒久的な保存・公開をおこなうこと」
■共同代表に姜徳相(カンドクサン)、山田昭次さんといった研究者の他、各地で調査・追悼を行ってこられた活動家の皆さんを迎え、これから国会議員へのはたらきかけ、世論形成への運動など展開していきます。
(角取(かとり))

●「もくれんの家」の留学生通信B

「越(え)っちゃん」こと可越(クウイエ)(かえつ)さんは中国東北部の吉林省(チィーリンシャン)・長春(チャンチュン)市出身。長春市はかつて日本が中国を侵略し傀儡(かいらい)政権をでっち上げた「偽満州国(ぎまんしゅうこく)」の首都・新京と呼ばれた土地。市内には「偽皇宮」を始め関東軍司令部跡など日本軍の残した多くの建物が歴史的資料として保存されています。そうした環境の中で、可越さんは吉林大学の日本語学科を卒業し、1994年に来日、翌年から埼玉大学の大学院に入学しました。
 大きな赤い水玉のワンピース姿に緊張した面持(おもも)ちで八木ヶ谷宅を訪れた日から一年半、「もくれんの家」の住人としてアルバイトと勉学に忙しい毎日を過ごしていました。学生時代から流暢な日本語力を買われ通訳として活躍し、「日本と中国の架け橋になりたい」と口にしていました。「あなたはここにいては自由になれない。出て行きなさい」と八木ヶ谷代表から宣告され、近くのアパートに引越してからも、事あるごとにおばあちゃんを訪ね「『やっている振り』をしていてはダメ!」とか「職場の日本人上司の差別的な対応に揺るがず立ち向かいなさい!」とアドバイスを受け早速実践……などなど、エピソードは山ほど。それらは可さんが小型ビデオを片手に始めた「東京視点」の受賞作『私の日本人おばあちゃん』として結実しています。「東京視点」はマスメディアと異なる形で市民メディアとして10年前に誕生・成長し注目を集めています。昨年12月には「日中の未来を考える―東京視点 日中市民交流イベント」を成功させ、ますます活躍が期待されます。本職は日中コミュニケーション鰍フ社長さん。今年3月にはお母さんになります。
(茅原(ちはら))

●八木ヶ谷代表の入院を通して見えてきたもの

 昨年暮れ、97歳の八木ヶ谷妙子代表が背中の痛みを訴えて、救急車で搬送される事態が起きました。駆けつけた救急隊員が脈・血圧・血中酸素を確認し、救急車に乗せて搬送先を探しましたが、土曜日の夜ということもあって、病院はなかなか見つからず、病人を励ましながら連絡を取り続け、病院に到着したのは通報から約2時間後でした。 夜勤のレントゲン技師、看護師さんの手で検査を終え、ベッドに休んだのは3時間後。翌日から10日間入院。正月を自宅で過ごすためにいったん退院しました。
 入院前は週2回の入浴ヘルプと一回の訪問看護だけで自立した生活ができていましたが、病院生活で体力が衰え、それは無理となり、毎日の食事の準備、3食とトイレ介助、24時間の見守りが必要となりました。そこでケアマネジャーさんと相談して介護体制を全面的に見直すことにしました。体制表を作って友人、知人の力も借りながら正月を迎えることになりました。
 しかしその夕方、発熱。何とか歩いて行くことができたトイレまでの歩行も困難になり、訪問看護師さんにかけつけてもらい救急外来で受診。幸い、空きベットがあって再び入院。病状は軽く、1週間後には退院も可能との診断でしたが、足腰の衰えがひどく、このまま自宅に戻るのは無理と判断、病院と相談して予約しておいた「介護老人保健施設(老健)」の空きを待って退院・入所となりました。本人には目まぐるしい変化でした。
 2度目に入院した総合病院は5年ほど前にも入院したことのある病院でしたが、様子がすっかり変わっているのに驚きました。まず職員、特に看護師さんが若い。経験豊かな年配の人の姿はほとんど見えません。しかも一人ひとりがパソコンつきのワゴンで移動しながらデータを打ち込んでいるのです。ユニホームの色もとりどりで、作業が細分化されているのがわかります。皆さん親切で一生懸命なのですが、病人から見ると「自分たちの仕事が忙しくて病人はそっちのけだ」と不満がでます。
 本当に必要な仕事は何か? 語り合う労働組合はあるのだろうか? と感じました。
(茅原(ちはら))

● お知らせ

2月の「ニイハオ+アンニョンパーティ」は特別企画です
鄭宗碩(チョンジョンソク)さんのお話『関東大震災時における朝鮮人大虐殺と私―在日三代史を語る―』をお聞きします。
2月12日(土)午後4時〜7時「もくれんの家」

● 「もくれんの家」 2月の特別企画

 「もくれんの家」は毎月の第二土曜日、午後4時から「ニィハオ+アンニョン・パーティ」を開いています。その他、時々特別企画(講演会やフィールドワークなど)をおこなっています。本年2月の特別企画は以下の通りです。
 日本と朝鮮の過去と現在を知り、未来を共に切り開く良い機会になれば、と考えています。★どなたもお気軽にご参加ください。

2011年2月12日(第2土曜日)
関東大震災時における朝鮮人大虐殺と私−在日三代史を語る−」

●お話 鄭宗碩(チョンジョンソク)さん(韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会・代表)
●ところ 「もくれんの家」
●午後4時開始(受付は午後3時30分)
●資料代 1000円

「もくれんの家」はJR中央線
阿佐ヶ谷駅北口から歩いて約15分です

鄭宗碩(チョンジョンソク)さん

「感謝の碑」の前で説明する鄭さん
(2010年9月)

 1942年12月、東京都葛飾区生れ(男5人、女3人の6番目)。日本の小・中・高校を卒業し、1962年に朝鮮大学・政経学部(東京都小平市)に入学(2年後の1964年に東京オリンピックが開催され、3年後の1965年6月に「日韓基本条約」と「在日韓国人法的地位協定」など調印される)。1966年に朝鮮大学(朝大)を卒業し、朝鮮総連・東京都本部職員となる。その後、朝鮮総連・愛知県本部、東京・江戸川支部で活躍。1994年に「韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会」を立ち上げ、現在にいたる。韓国の抵抗詩人・金芝河と親交がある。
 1923年9月1日の関東大震災における朝鮮人大虐殺の時、墨田区の製鉄工場で働いていた祖父母(鄭さんの祖父は1920年ころ「募集」で渡日し、北海道の夕張炭坑で働いていたが脱走。東京・向島で後述の真田千秋さんとめぐり合う)と父・鄭斗満(チョンドマン)(当時17歳。1923年7月に渡日)・叔母(斗満さんの妹)が工場長の真田千秋さんによって命を救われた。2001年3月、墨田区議会は「朝鮮人虐殺の資料は残っていない。慰霊碑を建てるつもりもない。建立は区民の利益に合致しない」などと答弁した。鄭さんはこれに言い知れぬ憤りを感じ、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(ほうせんじ)(真田家の菩提寺)に、自費をなげうって「感謝の碑」を建立(金九漢(キムグハン)、申英愛(シンヨンエ)さんが協力)した。

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