もくれんの家 会報 |
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子) 東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367 E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp |
もくれんの家 会報 (2005年1月) ●第2号 (2005年10月) ●第3号 (2006年1月) ●第4号 (2006年4月) ●第5号 (2006年6月) ●第6号 (2006年11月) ●第7号 (2007年1月) ●第8号 (2007年3月) ●第9号 (2007年7月) ●第10号 (2007年9月) ●第11号 (2008年1月) ●第12号 (2008年4月) ●第13号 (2008年7月) ●第14号 (2008年10月) ●第15号 (2009年1月) ●第16号 (2009年1月) ●第17号 (2009年7月) ●第18号 (2009年10月) ●第19号 (2010年1月) ●第20号 (2010年4月) ●第21号 (2010年7月) ●第22号 (2010年7月) ●第23号 (2011年1月) ●第24号 (2011年4月) ●第25号 (2011年7月) ●第26号 (2011年10月) ●第27号 (2012年1月) ●第28号 (2012年4月) |
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もくれんの花は いつも上を向いて みんな揃って咲き誇ります その「負けないぞ」という 誇り高い花の名こそ 我が集団の本当の意味です 理事長 八木ヶ谷 妙子(九八歳) ![]() 1月15日 新年会 ●地域に根ざし、時に怒り、喜び、ジャンプ!!
新年明けましておめでとうございます。昨年は孤独死、無縁死、幼児虐待など、人と人のつながりの希薄さを痛感させられる辛いニュースが続きました。しかし、一方で、こうした理不尽や社会のあり方を変えようと立ち上がっている人々がいるのも確かな事実です。
●「朝鮮と日本が平和なら、朝鮮のお寺・国平寺(こくへいじ)は要(い)らない!」
「きょうのタイトル『なぜ日本に朝鮮のお寺があるのか? ―韓国強制併合百周年に際して―』は私がつけました」「なぜ、日本に朝鮮のお寺があるのか? それは朝鮮がいまだ平和ではないからです。そして日本が平和ではないからです」「南北に分断されている朝鮮が統一され、日本が平和な社会になれば国平寺は要(い)らないのです!」―国平寺のご住職・尹碧巌(ユンピョガム)さんはこう切り出して、合計2時間ほど熱く語りました。胸にずしりとくる課題を、独特のユーモアをまじえてのお話に22名の参加者は聞き入りました。
「小平市民の会」と出会って
金百植(キムペクシク)さんの話に胸が痛む
尹(ユン)さんは次のように語りました。「国平寺を譲り受けるにあたっては、民団(大韓民国民団)が金を出し、朝鮮総連が同胞の遺骨収集を全国に呼びかけてくれました」。 交流会は金俊一さんの経営する「平和亭」でおこない、おいしい焼肉とマッコリを楽しみました。
侵略戦争が迫ってきたからこそ
国平寺(こくへいじ) ●「在日朝鮮人民と共に」 星野暁子
日本に国平寺という朝鮮の寺がなければ、引き取り手のないお骨がたくさんあるという事実に胸がえぐられました。国平寺の歴史は、朝鮮と日本の歴史そのものです。野ざらしになっている強制連行されてきた朝鮮人の遺骨収集は、これからも、もっと必要です。 ●「朝鮮のお寺・国平寺を訪ねて」 牧江壽子
住職のお話を伺い、お寺を見せていただき、その奥の深さ、人間の営みの偉大さに衝撃を受けました。 |
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●「1923市民の会報告」ご支援お願いいたします
■「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日韓在日市民の会(「1923市民の会」)」は、会の活動の方向性を明らかにし、広く運動を展開していくために、新たに「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」を発足させることを決定、昨年9月24日に設立総会を開催しました。 ●「もくれんの家」の留学生通信B
「越(え)っちゃん」こと可越(クウイエ)(かえつ)さんは中国東北部の吉林省(チィーリンシャン)・長春(チャンチュン)市出身。長春市はかつて日本が中国を侵略し傀儡(かいらい)政権をでっち上げた「偽満州国(ぎまんしゅうこく)」の首都・新京と呼ばれた土地。市内には「偽皇宮」を始め関東軍司令部跡など日本軍の残した多くの建物が歴史的資料として保存されています。そうした環境の中で、可越さんは吉林大学の日本語学科を卒業し、1994年に来日、翌年から埼玉大学の大学院に入学しました。 ●八木ヶ谷代表の入院を通して見えてきたもの
昨年暮れ、97歳の八木ヶ谷妙子代表が背中の痛みを訴えて、救急車で搬送される事態が起きました。駆けつけた救急隊員が脈・血圧・血中酸素を確認し、救急車に乗せて搬送先を探しましたが、土曜日の夜ということもあって、病院はなかなか見つからず、病人を励ましながら連絡を取り続け、病院に到着したのは通報から約2時間後でした。 夜勤のレントゲン技師、看護師さんの手で検査を終え、ベッドに休んだのは3時間後。翌日から10日間入院。正月を自宅で過ごすためにいったん退院しました。 ● お知らせ
2月の「ニイハオ+アンニョンパーティ」は特別企画です
● 「もくれんの家」 2月の特別企画
2011年2月12日(第2土曜日)
鄭宗碩(チョンジョンソク)さん
1942年12月、東京都葛飾区生れ(男5人、女3人の6番目)。日本の小・中・高校を卒業し、1962年に朝鮮大学・政経学部(東京都小平市)に入学(2年後の1964年に東京オリンピックが開催され、3年後の1965年6月に「日韓基本条約」と「在日韓国人法的地位協定」など調印される)。1966年に朝鮮大学(朝大)を卒業し、朝鮮総連・東京都本部職員となる。その後、朝鮮総連・愛知県本部、東京・江戸川支部で活躍。1994年に「韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会」を立ち上げ、現在にいたる。韓国の抵抗詩人・金芝河と親交がある。 |