ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第24号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

 ●第22号
(2010年7月)

 ●第23号
(2011年1月)

 ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第24号(2011年4月)
みんな命を預かってこの世に来たの
だから 大事な預かり物を だいじにだいじに
いたわりさすりながら生きるの!
自分を励ましながら生きて
いくことが人間の姿
いじらしい人間の
それが生きるということ
特別のことはない
みんなが素敵に生きようと
している

   八木ヶ谷妙子

 
八木ヶ谷代表を見舞って     自宅に戻ってきました
(2011年4月9日)        (2011年5月3日)

●いま、曖昧(あいまい)にしてはいけないこと

 3月11日に東日本を襲った大地震と巨大津波、加えて東京電力・福島原発事故で被災された方々に心からお見舞い申し上げます。
 もくれんの家は「1923年におきた『関東大震災時における朝鮮人・中国人大虐殺、日本人社会主義者虐殺』を再び繰り返してはいけない」を活動の柱にしてきました。今回の大震災に際しても、「在日朝鮮人・外国人の方たちは無事だろうか?」と頭をよぎりました。そんな時、「高校無償化からの朝鮮学校排除」に反対してともに闘った在日朝鮮人の方から、仙台市の東北朝鮮初中級学校が開放され、近隣の日本人にも炊き出しや救援活動がおこなわれているというメールが届きました。石巻では「焼肉塾(在日の青年商工会などの主催)」による炊き出しがおこなわれ、また、郡山市の福島朝鮮初中級学校に日本人30人が避難するなど、国籍と民族、国境を超えた助け合いが展開されています。東北放送以外、マスコミでは伝えられていません。一方、在日の経営する千葉県のパチンコ店が「こんな時、日本人から金を取るのは許せない」と脅迫され、一時休業に追い込まれた事件も起きています。宮城県は震災を理由に朝鮮学校への助成金を打ち切りました。関東大震災時の虐殺事件は決して過去のことではないのです。
 関東大震災後、虐殺の国家責任は闇に葬られ、「帝都復興」の掛け声の下、労働運動はつぶされ、挙国一致の戦時体制に突入していった歴史が、いま繰り返されようとしています。「原発は安全」と偽って大惨事を起こした東電と政府の責任を曖昧(あいまい)にしたり、「日本はすばらしい国。日本人は一つ」と思い込んだり、防衛大学校長が議長をつとめる「復興構想会議」を認めることなどは、それに繋(つな)がると強く感じます。
(茅原(ちはら))

●朝鮮人虐殺に関する2部作
『隠された爪跡』『払い下げられた朝鮮人』上映会

 9月10日(土)の「ニイハオ+アンニョンパーティ」は呉充功(オチュンゴン)監督が1980年代に制作したドキュメンタリー映画2作の上映を予定しています。1923年9月1日発生の関東大震災後、軍隊、警察、さらには意図的に流布された流言飛語によって市民たちの手で殺害された朝鮮人たち。その数は6000人を越すと言われています。「もくれんの家」はこれまでも、八木ヶ谷代表の目撃証言を起点に、この問題をより深く知るための様々な企画を実施してきました。今回は被害者、加害者、目撃者など、貴重な体験証言を記録した映画上映です。詳細はおってお知らせいたします。ぜひご参加ください。過去に学び、二度と惨劇を繰り返さないために。
(角取(かとり))

●関東大震災時における朝鮮人大虐殺と私
  ―在日三代史を語る―  鄭(チョン) 宗碩(ジョンソク)

 本年2月12日(土)におこなわれた「ニィハオ+アンニョンパーティ」は特別企画として、在日朝鮮人二世の鄭宗碩(チョンジョンソク)さん(1942年、東京・葛飾生まれ。「韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会」代表)のお話をうかがいました。鄭さんが歩んだ70年にわたる波乱万丈の人生は「在日」の縮図ともいえ、37人の参加者は約1時間の話に引き込まれました。また、質疑応答や意見交換を通して「在日」をめぐる日本社会の問題点をさまざまな角度から把握し、民族差別を許さず、連帯と団結の道をどのように開いていくかを語り合いました。なお、この企画にあたっては、姜仙會(カンソネ)さん(鄭さんの長年の友人で、在日本朝鮮文学芸術家同盟・中央委員。タイトルを書いていただいた)と任京河(イムキョンハ)さん(朝鮮大学校准教授。写真・資料を提供)のご協力をいただきました。
(片岡)

歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で鄭さんと出会う
 鄭さんと知り合ったのは今から4年前のこと。「もくれんの家」が2007年10月に国立(こくりつ)・歴史民俗博物館を見学した時、鄭さんも参加。博物館には「関東大震災における朝鮮人大虐殺」の目撃証言者である八木ヶ谷妙子(もくれんの家・理事長)の「証言」がビデオに収められています(「会報」11号参照)。以来、鄭さんは毎月の「ニィハオ+アンニョンパーティ」に参加され、親交を深め、今回の企画が実現したのです。
朝鮮大学に進学して民族性・人間性を取り戻し、ご両親に初めて朝鮮語であいさつ
 鄭さんのさまざまなお話の中で、おばあさんの思い出話はとても考えさせられるものでした。おばあさんは息子(鄭さんの父・鄭斗満(チョンドウマン)当時の在日本朝鮮人連盟〔朝連〕の活動家)が警察に不当逮捕されるたびに「そもそも在日がここに住んでいるのは、あんたらのせいだ! 息子をすぐに釈放しろ!」と警察署に抗議に行く豪傑でした。「朝鮮人であることを誇りに思い、在日のおばあさんたちと銭湯に行く時などは私の手を引いて、誰はばかることなく大きな声で朝鮮語をしゃべるんですよ。私はそれがいやで、いやで、たまりませんでした」(鄭さんは、のちに「おばあちゃんに謝りたい」と言っていました)。鄭さんは高校までは日本学校に通います。都立・江戸川高校に入学した1958年に「小松川事件」〔東京・小松川高校定時制2年の女子高生(16歳)殺害事件。同校の定時制1年の李珍宇(イジヌ)(18歳)が逮捕・死刑判決を受ける。救援運動が起きるが異例の速さで62年に死刑執行。しかし今なお、冤罪の疑いが消えない〕が起きます。「だから私は朝鮮大学に進学するまでは、自分が朝鮮人であることをひたすら隠そうとしていました。この感覚は日本の皆さんには理解できるでしょうかね?」と語りかけました。「朝鮮大学では朝高生(ちょうこうせい)(朝鮮高校卒業生)と日高生(にっこうせい)(日本高校卒業生)のカリキュラムは違いました。日高生の私はまず、『60日間、母国語習得運動』をおこないました。月明かりの下で本を読み、眠くなって池にポチャンと落ちるということもありました。習得運動を終え、演劇とスピーチで成果発表、そして、夏休みに家に帰り、両親に朝鮮語で初めてあいさつしました。それはもう、涙・涙でしたね」「こうして私は日帝によって奪われた朝鮮の言葉・歴史・文化を奪還し、民族性を取戻し人間性を取戻したんです」。
 1964年の東京オリンピックでは共和国選手団は朝鮮大学を寄宿舎にしますが、米日帝国主義の妨害で参加できなくなります。帰国するとき、団長が朝大の正門前で「帝国主義者には屈服しない。帝国主義者たちとの闘いに勝利して帰るんだ」と叫んだこと、また、65年、鄭さんのお姉さん家族が「帰国事業」で共和国に「帰国」する話、入管法との闘い、1999年に南北の統一を願って二人の息子さんたちと板門店を訪問し38度線を見学したことなどなど…。
虐殺の事実を形に残すため「感謝の碑」を建立(こんりゅう)
 1923年9月1日の関東大震災で朝鮮人大虐殺が引き起こされましたが、鄭さんの祖父母・父・叔母さんは真田さんによって助けれました。ところが、墨田区議会が「虐殺の資料はない。慰霊碑を建てるつもりもない。建立は区民の利益に合致しない」(2001年3月)と答弁したことに「爆弾を投げつけてやりたいと思った」「それならば父の遺言を実行し、虐殺の事実を誰も否定しえない形にして残そうと考えて感謝の碑を建てた(01年9月1日)のです」と語りました。
〔感動この上ないお話は、ここではこれ以上は紹介することはできません。詳細は後日発行の講演集を是非お読みください〕。


「感謝の碑」の前でお話しする鄭さん
(2010年9月18日)
「碑」の建立は、2001年9月5日付『朝日新聞』
などに紹介された

かさなる想い、数々
 梁裕河(ヤンユンハ)

 私は鄭宗碩さんとは面識がなく、昨年結成された「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の発足式で、遠くから拝見したことがあるだけでした。先日のお話を伺い、私と10歳も違わないためか、たどって来た在日朝鮮人としての道のりに、小異はあっても共通するものが多く、感慨深いものがありました。李珍宇(イジヌ)、帰国船、ウリマル獲得運動、韓日条約、金嬉老(キムヒロ)、朝高生への暴力、入管法、指紋押捺問題等々・・・、いまだに大きな問題を抱えたまま、その根幹は未解決となっていることばかりです。
 鄭さんが話されたことはどれも私にも身近な問題で、自分自身の通ってきた道を振り返るようです。思えば昨年は「韓国強占百周年」でした。朝鮮への植民地支配を反省する良い機会でしたのに、実際には高校無償化からの朝鮮学校外しをはじめ、あからさまな差別がおこなわれてしまいました。在日が百年をへて、いまだに植民地支配のくびきから解放されていないことを改めて思わされたと同時に、ああ、もう私達も自分の越し方を語る世代になったのかと、改めて知らされた思いです。
 植民地支配から百年、いまだに続くこの差別的な状況を、まだ語らねばならないのか、いや語っていくべきだと強く再確認しました。
*「ウリマル」とは朝鮮語(ハングル)で「私たちの言葉」という意味で、ここでは「母国語」の意

るつぼの中で見つけた希望
 平野 慎一


鄭さんの話にひきこまれる

 初めてうかがいました。冷たい雨が降っていましたが、立ち席の方もでるほどの盛会でしたね。いや、たくさんの方というよりも、布施辰治に弁護してもらった経験をお持ちの方や労組で闘っている方などなど、多様な体験・活動、あるいはきびしい闘いをされてきて熱い思いを持った方たちが集まっていることに驚きました。るつぼということばが頭をよぎりました。
 鄭さんのお話は、ぼくから少し遠のいていた関東大震災時の朝鮮人大虐殺の様子をリアルに引き寄せてくださいました。鄭さん一家の命を、それこそ命がけで救うべく自警団と対峙した日本人がいたこと、わが身の腰の引けた姿を鏡に映し出された思いです。また、韓国の民主化運動に参加したことのある陶芸家や金芝河とも親交を持たれてきた鄭さんの、幅広いというか独自の道を探し求めて来られたであろう人生に大きな関心を持ちました。機会があればさらに深くうかがいたいと思っています。
さてこれからどうしようかと手探りしているところで道遠しですが、希望を見つけた思いです。
(朝鮮初中級学校を支える小平市 民の会・タリの会)
 *「タリ」とは「架け橋」という意味

●追悼・李吉純(リギルスン)さん


酒とタバコ・囲碁とタンゴ、
そして絵を描くことが大好きだったマスター
(李さんを送る会で)

 謹んでお知らせいたします。2008年12月に『枝川ウリハッキョ』をお話していただいた李吉純さんが、昨年暮れに心筋梗塞でお亡くなりになりました。朝鮮民主主義人民共和国に住むお姉さんに会うために共和国を訪問中のことでした。そして本年2月13日に、地元・阿佐ヶ谷で百人ほどの人々が集い「韓伽羅(カンカラ)マスター 李さんを送る会」が開催されました。もくれんの家が発行した『枝川ウリハッキョ』50部が参加者の皆さんに手渡されました。また、李さんの母校である「東京朝鮮第二初級学校(枝川朝鮮学校)」の新築を祝う式典が3月5日におこなわれ、鄭宗碩さんが李さんの遺影を持って参加されました。李さんの「在日の苦難の歴史と、日本の民衆との連帯を求める」お話には本当に感動しました。改めて感謝申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。なお、「朝鮮風居酒屋・韓伽羅(カンカラ)」〔阿佐ヶ谷北2。(3338)7002〕はご遺族様が引き続き経営されています。「新・忘年会、旗揚げ、二人の語らい、上司の陰口、革命談義、……ウサ晴らしに最適!」(お店の紹介ビラより)です。
(片岡)

●医療への過信が入り込んだ迷い道
 「助けることばかりを考えてきた医療とは?」

芦花ホーム 石飛幸三医師のお話

  八木ヶ谷妙子代表が老健(介護老人健康施設)に入所したことは前号でお知らせしました。3ヶ月後に自宅に帰れるよう、リハビリに努める毎日ですが、その間に、私は特別養護老人ホームを見学しました。ジャズピアニストのケイコさんの紹介で伺ったのが世田谷区立特別養護老人ホーム「芦花ホーム」。前世田谷区長が「日本一の特養」をと建てたホームは斬新なデザインで光にあふれ、清潔な施設でした。そこでお会いしたのが「胃ろうに再考をうながした外科医」として有名な石飛幸三先生。著書『平穏死のすすめ』(講談社)は発行部数4万部を超え、全国各地で講演会がおこなわれています。
 芦花ホームは要介護4から5の高齢者が入所しておられます。他の多くの施設同様、かつては口からの食事が困難になった方には、チューブから直接胃に栄養を流し込む「胃ろう」の処置をしてきました。しかし、石飛先生は赴任後「医師のもう一つの役割は、人生の最終章=物語の最後を看取ること」と考えられたのです。「死に向かっている人は食べたくないと思っている。その意思を無視して、無理やり食べさせ、生かしている。意識がはっきりしていれば拒否した『親切』を押し付けるのは、尊厳を冒していることではないか」と、延命至上主義と胃ろうについて再考をうながしてきました。
 腕利きの外科医として「救命と延命ばかり考え、医療を過信した結果、日本の医療は迷い道に入り込んだ。責任を感じている」「延命に関する刑法も高齢化社会に適したものに変えるべきだ。医師会もしっかりしなければ」と、やさしい笑顔で話し、ホーム内を丁寧に案内してくださいました。先生が声をかけると、入所者は明るい表情で手を握り返します。貴重なお話と体験でした。
(茅原(ちはら))

●話題の広場 福島原発の事故に思う@
原子炉は核兵器をつくるために考えられた! 

 3月11日、ついに、恐れていた巨大な原発事故が引き起こされた。福島原発から毎日「死の灰」が大量に降り注ぎ、私たちは文字通り「生存の危機」に立たされている。新潟に生まれ育った私は東京電力・柏崎刈羽(かしわざきかりわ)原発反対運動に当初から参加してきたが、力及ばず建設されてしまい、ずっと悔しい思いをしてきたので、日本政府と東京電力に対する言い知れない怒りでいっぱいだ。
 地震列島の日本にこれほど恐ろしい原発を建設したこと自体が大間違いなのだ。このことを政府と東京電力に絶対に認めさせなければならない。直ちにすべての原発の運転停止・廃止を実現しなければ、私たちは自民党や民主党と電力資本によって殺されてしまう。これは決して誇張ではなく、核や人工的に造られた放射能というものは人間の手に負えないものだから。計画停電が叫ばれていたが、これは原発をなんとしても維持するための「脅迫」だ。火力と水力発電だけで電力は十分足りているのに、それをわざと隠して「原発がないと電気が止まる」と思わせるためのデマなのだ。
 そこで、原子力発電の問題を考えてみたい。「原子炉」とは、そもそも「発電」のためではなく、核兵器を作るために造られたものである。アメリカはヒロシマ・ナガサキ用のウラン爆弾とプルトニウム原爆をつくるために原子炉を造ったのである(マンハッタン計画)〔日本も仁科(にしな)研究所で原子爆弾を造ろうとしていた〕。そして日本は、1954年3月1日に起きたビキニ被爆(マグロ漁船の第五福竜丸が被爆)を政治的に利用して、翌55年に日米原子力協定を結び(中曽根康弘、正力松太郎、岸信介が主導)、核開発の名の下に核武装を開始した。その時に言われたのが「原子力(核)の平和利用(atoms for peace)」なのである。(続く)
(片岡)

● お知らせ

@6月下旬に2011年度の総会(第9回総会)をおこないます。
 ●日時・場所は追ってお知らせいたします。
A「もくれんの家」代表・八木ヶ妙子は4月30日(土)に老健を退所し、自宅での生活を再開します。

ホーム | 設立趣旨書 | 活動内容 | みんなの家 | 交通案内

もくれんの家ロゴ このページのトップヘ