ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第26号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

 ●第22号
(2010年7月)

 ●第23号
(2011年1月)

 ●第24号
(2011年4月)

 ●第25号
(2011年7月)

 ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第26号(2011年10月)
●9月10日 関東大震災時の朝鮮人虐殺を問う
 『隠された爪跡』『払い下げられた朝鮮人』
 上映会を開催しました


上映に先立ってあいさつする高秀美(コスミ)さん
 9月10日(土)、「もくれんの家」は呉充功(オチュンゴン)監督の関東大震災朝鮮人虐殺に関する2部作である『隠された爪跡』『払い下げられた朝鮮人』の上映会をおこないました。在日朝鮮人の方も含め40人の参加でした。
 初めて見たという参加者がほとんどで「朝鮮人虐殺の事実は未(いま)だに明らかになっていないのか!?」「官憲だけでなく、民衆にも殺させたなんて知らなかった」という驚きと、あらためて「関東大震災時の朝鮮人虐殺は何だったのか?」を問いかける映画会となりました。呉監督は丁寧(ていねい)に歴史を紐解(ひもと)き、証言者を探し、インタビューし、記録しています。特に『払い下げられた朝鮮人』は長く上映の機会がなく、「幻のドキュメンタリー」と形容されている傑作です。
 虐殺の目撃者である八木ヶ谷妙子(「もくれんの家」代表)は今年98歳となりました。欠かさず参加してきた千葉県八千代市高津観音寺の慰霊祭には、今年は高齢のために参加することは叶(かな)いませんでしたが、体の芯に「朝鮮人虐殺」という事実を抱き、目撃者として発言を続け、被害者を追悼してきました。
 今年は関東大震災から88年目。日本政府は官憲の虐殺関与を一貫して認めないばかりか、歴史歪曲の教科書を子どもたちに押し付けています。この国家犯罪の責任を徹底的に追及していかなければなりません。「もくれんの家」は、各地で真相究明と追悼をされている方々と連携しながら、八木ヶ谷代表の「あの殺された青年はどこから来たのか。なぜ異国で殺されなければならなかったのか」という心の痛みをしっかり引き継ぎ、再び歴史を繰り返さない、いえ、新しい歴史を切り開く活動をしていかなければならないと、改めて原点を思い返しました。

●お知らせ

●11月の「ニイハオ+アンニョンパーティ」
 10月20日に満98歳の誕生日を迎える八木ヶ谷代表を囲んで「八木ヶ谷精神とは何か? を語り合う会」とします。皆さんが感じていることを語り合いながら、現代を生きる意味を考えていきましょう。
 ◆11月12日(土)午後4時〜 もくれんの家にて 会費八百円
●ケイコさんのピアノコンサート
 10月に予定していた、朝鮮第九初級学校でのコンサートは12月に延期しました。詳しくは追ってお知らせいたします。
●朝鮮大学校の見学
 11月に予定していましたが、都合で来春に延期します。

●映画を観て


『払い下げられた朝鮮人』の映画ポスター
事実を伝える大切さ 小林真理子
 「隠された爪跡」では、教師が生徒を連れて荒川河川敷に行き、関東大震災後、朝鮮人が虐殺されたことを現地で学習している場面が映されていたが、あの当時はこんな教育も出来ていたんだと改めてあの頃の教育の自由さを尊く感じた。
 ネット右翼などが若者に浸透している現代、真実を伝える教育こそが必要と切に感じているが、世の中は反対方向に動いている。もくれんの家の会報に「過去から学ぼうとしないものは同じ過ちを繰り返す」とあったように、教育現場では避けることなく事実を見つめていく中から友好と平和が生まれることを早く気づいて実行して欲しい。
 未来ある子どもたちに真実を伝えることは、大人たちの義務だと思う。

呉充功監督の2部作を観て
 ―朝鮮人虐殺と3・11 高井真一

 映画では自分の知らなかった事実も記録されており、触発されて改めて年表をくってみた。
 1914年第一次世界大戦。17年ロシア革命。18年米騒動。19年朝鮮3・1万歳運動。普通選挙権獲得運動の高揚。経済恐慌。労働争議の激化と日本初のメーデー。21年三菱造船・川崎造船の大ストライキ。22年日本共産党、日本農民組合、水平社の結成。23年大震災直前に共産党員や労働運動活動家の大量逮捕、そうした中で9・1大震災が発生。朝鮮人や中国人、大杉栄ら社会主義者、労働運動活動家が大量に虐殺された。
 支配階級は大災害発生に際し、一切を治安の維持・体制の保持のためとし、差別と排外主義で人民を分断し、民衆の心の底からの怒りを抑え強権支配に転じた……。
 2011年3・11大震災と福島原発事故時に支配階級がやったことはなにか!? 10万人の自衛隊を動員して被災地に戒厳体制を敷き、高速道路などを制圧。「情報隠し」と「ウソ情報」で、震災と被曝に対する怒りをねじ伏せ、人々を分断し、決起の抑え込みに腐心し、米軍との「トモダチ作戦(核戦争作戦!)」を強行していた。
 関東大震災時、「朝鮮人暴動デマ」で朝鮮人虐殺を扇動した警察官僚・正力松太郎が、戦後、読売新聞の社主として中曽根康弘と一体となって「原子力の平和利用」を掲げて、(将来の核武装にむけた)「原発推進」の旗振り役になった。朝鮮人虐殺と原発推進はつながっていた。
 福島県への「棄民政策」に怒りを燃やし闘っている福島のお母さんたち、労働者・農民・漁民の人々と心をひとつにして「原発再稼働を許すな。全ての原発をなくそう。被曝労働を許すな」「命より金儲け優先の社会を変えよう」という大運動を起こしていこう。
 呉(オ)監督の二部作から1923年と現在を重ね、強く感じた。

何かを知るということは――本当に知るということは、もはやそのことを知る以前の自分ではなくなることだ。いつのころからか、そう思うようになった。
 関東大震災における朝鮮人虐殺のことを知ったのは大人になってからだ。私はもう知らない以前の私ではなくなった。それは私が在日朝鮮人だからだろうか。必ずしもそうだとは言えないだろう。この問題に正面から向き合った朝鮮人をはじめ、多くの日本人にも同じことが起きたからこそ、今につながる調査・記録が残され続けてきた。おそらく彼らもまた、知る以前の彼らではなくなったのだ。
 今回の上映会に集まったほとんどの人びとが呉(オ)監督の映画を始めて観る人たちだった。どのようなことも初めは「知る」ことから始まる。多くの人びとに「知る」ことが伝播され続けていくことを願う。
高秀美(コスミ)
 *上映会当日、会場で映画の紹介をしていただきました

●いま、関東大震災朝鮮人虐殺を問うことについて 角取(かとり)明子

 3・11東日本大震災、続く原発事故以来、88年前に起きた関東大震災朝鮮人虐殺を、今、問うことの意味を考え続けています。
 「もくれんの家」は様々な企画を通して朝鮮人虐殺の問題を伝え考えてきました。また筆者は2007年発足の「1923市民の会」、続いて2010年に始まった「関東大震災朝鮮人虐殺の国家責任を問う会」の事務局員として、日韓在日の研究者・各地の市民活動家他、長年取り組んできた皆さんと共に活動してきました。日本と朝鮮半島を巡る未解決の問題、というと強制連行や「慰安婦」等、戦後補償に関わるものが山積しています。大正時代に起きた虐殺については事の重大さにも関わらず、人々の関心、認知度は低いといわざるを得ません。流言飛語を意図的に流して虐殺を促した国家の責任を問うべく、伝手(つて)をたどって初めてある国会議員に面会したのは3月1日のことでした。しかし、発災後は議員も私たちも正直「それどころではない」事態を迎えます。私は被災地支援をどうしたらよいか、そして何より原発事故の情報収集に追われました。ボランティアで現地に赴くのでなければ反原発運動をすることが「使命」と、デモや抗議行動への参加を続けてきました。
 さて、直後の混乱の後、活動再開。「関東大震災朝鮮人虐殺」を今どうとらえるか、が私にとっての課題となりました。7月には反原発運動の先頭に立つ若者や「ヘイトスピーチに反対する会」のメンバーを招いて「国家責任を問う会」として緊急ティーチインを開催、朝鮮高校無償化排除や東北朝鮮初中級学校への補助打ち切りの施策が打ち出されるなか、どんな語りかけが有効か話し合いました。浮かび上がったのは朝鮮人虐殺の根にあるものも、原発を過疎に悩む地方に押し付けて推進してきた政策も、フクシマの人々を切り捨てようとする方針も、差別排外主義の思想から生まれているのではないか、ということでした。
 歴史の1頁をのぞくように88年前の出来事を捉えるのではなく、今、たった今、目の前に起きている事象との深く強いつながりを意識する感受性と想像力をもって運動を進めること、語りかける言葉を持つこと、とウンウン呻吟(しんぎん)しながら自分に言い聞かせているところです。

●自宅介護のかたちA
地域医療に支えられた介護・医師と訪問看護士の連携


可越(クウイエ)さんは震災直前に男の子を出産。
家族と一緒に八木ヶ谷さんを訪問してくれました
(9月20日)

 今年の夏の暑さは若い人にも厳しいものでした。とりわけ体温調節がしにくく、自分で動くことが出来なくなった八木ヶ谷妙子さんにはエアコンでの温度管理と、「水分補給」に神経を使いました。
 ヘルパーさんたちは毎日、水を飲んだ時間と量を克明に記録しながら、一日平均700t〜1リットルを飲ませるという大変な努力でした。おかげで八木ヶ谷さんは無事に酷暑を乗り切りました。と安心していた9月28日、37℃以上の熱が下がらず、ぐったりしてしまったのです。朝になっても熱は下がらず、かかりつけの医師に緊急で往診をお願いしました。救急車や入院は何としても避けたかったのです。
 この医院はお父さんの代からの主治医で、跡を継いだ女医さんに月に一回の往診をお願いしています。八木ヶ谷代表の若いころからの様子や性格、生活などをわかっているので、アドバイスも自信を持った的確なものです。ちょっとした変化や心配にも、重い鞄に軽いフットワークで駆けつけてくださいます。
 今回も早速往診。「痰(たん)がたまっていました」としっかり除去し、私たちにも取り方を教えてくださいました。その夜から熱が下がり始め、やがて「元気な妙子さん」が復活したのです。熱のある間はとにかくよく眠りました。痰と熱とともに夏の疲れも吹っ飛んだようです。その後は目がパッチリ開いて、日常の受け答えもしっかりしてきたのにはビックリです。その様子に「良かったですね」と本当にうれしそうな先生の笑顔は、介護する者にとっては大きな支えになります。
 医師の往診の間に訪問看護士さんが毎週来てくださいます。ヘルパーさんの記録に目を通し、医師の指示を踏まえ、健康状態をチェックし、適度なリハビリや、簡単な医療処置をお願いできるのでとても心強いです。訪問看護制度は介護保険に位置づけられており、ステーションが区内には数ヶ所あります。
(茅原(ちはら))

●「慣れが怖いのです」 「子どもたちの命を守ろう!」
 200日過ぎて、福島で  伊藤登美子

 1945年8月6日、9日。ヒロシマ・ナガサキで原爆が落とされ、街は焼き尽くされ、20万人近い人が殺され、それ以来、原爆症に苦しみ、今まで各種癌・および白血病で死に続けている。
 9月中旬、3・11以降3回目の福島で25校、26人の先生たちに会った。学校を歩いている子ども、外で遊んでいる子どもをまったく見ない。庭の片隅にはブルーシート。窓は真夏並みの暑さのせいか、一学期とは違い、開いてる。小学校一年生の下校に出会った。通学路に高放射能蓄積箇所があるため、先生が付いて下校。一クラスでマスクの子どもはたった3人。ほとんど半袖Tシャツ。ある中学校の給食準備時間中に、大勢の中学生がプールに出かけるところに出くわした。聞くと、全市、年に一回のプール。一学年全部では泳げないから、半分は1時間遅れで出発。借り上げバスにうれしそうに乗り込む。行き先は磐梯熱海。
 除染が新聞で大げさに書きたてられているが、5ミリSVまでのところまでである。だからこの間、「20ミリSV」を福島のお母さんたちのネットワークのたたかいで「1ミリSVを目指す(学校だけ8時間という、とんでもない数字!)」まで押し返したが、地域の数値が低いと対象にならない学校が何校もあった。
 集団登下校する地域。プールは全市の各学校がたったの一回。新人戦にも「3時間競技」を強いられる中学生。教育委員会は「通知」のみで、危険だから誰にも頼めず、高圧洗浄器の水しぶきを浴びながら、校舎裏の排水溝付近の除染作業を引き受ける教員。「慣れが怖いのです」と。一体これが学校? 仕事や家そして家族がここにいるから! 「米が、野菜が安全」と報道されるが、今、眼前で進行していることは「人間が一番安全でない」。
 あれから半年が過ぎ、見えない放射能は収まっていないどころか、被曝地帯は拡大している。命・未来を守るには、仕事も家族も、生活すべて安全なところで生きていくこと。それを国と東電は保障するべきだ。
 労働組合は労働者の命を企業の利益に差し出さず、ストライキを打とう! 命を守り、原発をなくす! 特に日教組は一刻も早く「福島の子ども30万人を被爆地に置くな!」のストライキを!

●話題の広場 福島原発の事故に思うB
玄海原発の「やらせメール」と40年前の柏崎(かしわざき)刈羽(かりわ)原発

 
柏崎原発反対同盟などのビラ(左:表面 右:裏面)

 9月19日、東京・明治公園で「さようなら原発」集会が開催された。呼びかけ人の大江健三郎さんのあいさつ、俳優の山本太郎さんの音頭でのコール、福島現地からの涙の訴えなど感動の連続であったが、何よりも参加者6万人超の人波、「怒 福島隊」の旗また旗、労働組合の大結集に感激し身が震えた。力及ばず造られてきてしまった原発すべてを廃炉にし核・原子力を地上から一掃する展望が見えてきた。
 さて、九州電力・玄海原発(佐賀県)をめぐる「やらせメール」発覚以来、各電力資本と政府、原子力マフィアに群がる政党・労組・御用学者などの癒着・不正・腐敗が次々と明るみに出てきた。こうしたことは、実は原発建設の当初から全国でおこなわれてきたのである。今回はこれを見てみよう。
 例えば、東京電力の柏崎(かしわざき)刈羽(かりわ)原発(新潟県)ではどうだったか。1960年代後半の計画段階から、東大工学部の御用学者たちは柏崎にやってきては「原発は安全。放射能漏れは絶対にない」とウソ八百を並べ立て、講演が終われば高級料亭で東電の接待を受け「講演料」と「車代」を受け取って東京へ帰っていく。原子力安全・保安院は東電と同じ内容の、ウソとデマを書き連ねた「安全」パンフを全戸に配布する…という具合であった。原発建設のセレモニーでしかなかった「公開ヒアリング」は、柏崎原発反対同盟など地元三団体が1982年10月に発行したビラで暴露・弾劾しているように、各電力資本と政府・関係自治体による露骨なサル芝居だった。ビラにある通り、福井県敦賀(つるが)市の高木市長(当時)が言うように「われわれが陳述人に、時には原稿まで用意して陳述を依頼し、終われば慰労会までやっていた」のが実態だったのである。これは地元紙『新潟日報』にも紹介され、当時、大きな驚きと怒りを買ったのを今でも鮮明に覚えている。また、現・経済産業大臣の枝野幸男(前・内閣官房長官)は2000年には前・法務大臣の江田五月、現・名古屋市長の河村たかしと一緒に東電主催の柏崎刈羽原発視察の一泊二日ツアーに招待され接待を受けていた。原発は、こうした構造のもとに、デマと金、暴力によって建設が強行されてきたのである。
 フクシマの苦悩と悲しみ・葛藤と憤怒を共有し、原発立地であくまで反対を貫く人々と連帯しよう。日本のみならず全世界の原発をすべて廃炉にするため、来る11月6日(日)に開催される「反原発・反失業・国際統一行動」(東京・日比谷野音。正午)でさらに大きな声を上げたい。
(片岡)

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