ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第17号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第17号(2009年7月)
●「もくれんの家」の新しい出発
 ―第7回総会を開催しました―

あなたがいるから、わたしがいる
出口と入り口をもっているのだから、みんなつながっている
 仰げば無限の天空
 ふめば惑星地球
 いとしき友よ、よろこべ
 命あることを
八木ヶ谷 妙子



あいさつする
八木ヶ谷理事長(中央)


 6月28日(日)梅雨の雨が降るなか、もくれんの家の第7回総会を開催、総会に初めてという会員も含め12人が参加しました(欠席された方からは委任状が9通とどきました)。
 中国旅行から帰国したばかりの八木ヶ谷妙子理事長(96歳)も「力を集中し、焦点をますますはっきりさせ、自信を持って運営しましょう」と元気に開会の挨拶。そのあと、事業報告、決算報告、09年度事業計画、予算案などの報告・討論を通じ、議案はすべて承認されました。
 今年の総会は、本年3月末で「移送サービス事業」を無事終了し、二つの新しいNPOに引き継いでいただいたことを受け、新たなスタートといえる総会でした。
 まず私たちが今、生きている時代認識を共有し、昨年度の活動を映像も見ながら振り返りました。特に身近な在日朝鮮・韓国の皆さんとの出会いや学習、1923年の関東大震災における朝鮮人虐殺の真相糾明と名誉回復を求める運動との連動、中国の人々との交流などなど、昨年度の成果の上にいっそう国際交流を深め、拡げていくことが確認されました。
 また、伊豆大島から参加した中田(なかた)保さんから大島のNPOの活動が、介護保険制度の問題点とたたかいが長谷川英憲(ひでのり)さんから、「1923の会」の報告が角取(かとり)明子さんからおこなわれました。参加者がそれぞれ近況報告をおこない、総会を終えました。
 その後、場所を移し、会食しながら親睦を深めました。
(茅原(ちはら))



今後の予定
*8月11日(火)〜13日(木)(予定)
  関東大震災虐殺現場(埼玉・群馬)のフィールドワークに参加
*9月6日(日)
  関東大震災被害者慰霊祭に参加 (於・千葉県八千代市)
*9月12日(土)、10月10日(土)
  16時〜19時 ニーハオ+アンニョンパーティ(於・もくれんの家)
 ●8月のパーティはお休みします
*11月14日(土)
  「ウリハッキョ(私たちの学校)アンコール上映会」(会場は未定)


●語り、学びあった国際交流パーティ

4月
4月は伊藤登美子 さんが「教員生活を振り返って」を話しました。



一 今―処分・分限免職、非正規の増大―大量解雇
 百年に一度の大恐慌のもと「道州制」導入で大量解雇! アメリカですでに始まっている。学校現場は、10年有期雇用の免許更新制、賃金格差・分断の制度が導入され、非正規の教員が増え続けている。東京都では卒・入学式での「日の丸・君が代」を強制する2003年10・23通達が出され、不起立・不伴奏で400人を超える被処分者が出た。私も処分を受けた。しかし、今年もたたかいは続いている。行事への愛国的忠誠は戦争への道であるので、絶対に譲(ゆず)れない。
二 勤務評定反対・安保闘争をたたかった労働者の中で
 私は「でも・しか」教師として出発。一人で食うためとはいえ、採用試験が今とは違い三回もあった時代。私の上が35才の青年部という職場に入った。まるで、けんかに見られるくらいに議論した。やりたいことは実行に移した。賛否両論巻き起こしながら、支えてくれたお母さんたちと職場の先輩たちに囲まれていた。職場から出ると七〇年安保闘争が始まっていた。寝る時間以外は、学校と職場の同僚―組合と闘争の中に身をさらしていた。ストライキ論争・教師―聖職者批判をしながらストライキを作っていった。たたかうことで存在感や連帯感を味わった。
 勤務評定反対闘争では教員のたたかいは学校の中にとどまらず、労働者につながっていくと感じた。
 嵐には、向かってこそ、方向も見えるし、力が出るのである。社会を変えなくては。
(伊藤)

5月
5月は29名の参加で記録映画『朝鮮の子』(DVD)の上映会。




昨年12月に「枝川ウリハッキョ」と題してお話していただいた在日朝鮮人2世の李吉純(リギルスン)さんの母校である東京朝鮮第2初級学校(枝川朝鮮初級学校)を主要な舞台とするドキュメント(1954年秋に撮影開始、55年2月完成)です。
 枝川の男子小学生自身の「僕は朝鮮人です。朝鮮人はみんな貧乏です」のナレーションで始まり、1945年8月の朝鮮の解放直後の、民族差別と劣悪な環境と貧困に抗してたくましく生きる在日朝鮮人の生活を活写しています。そして「僕の学校は東京の枝川町にあります。僕の学校に大変なことが起きました」とナレーションは続き、主テーマである、日本政府による「朝鮮学校の廃校命令」に反対して民族教育を守るたたかいを描いている歴史の証言です。特に、当時、枝川初級学校で教鞭をとられた在日朝鮮人歴史家の朴慶植(パクキョンシク)さん(1922〜98年。『朝鮮人強制連行の記録』など著書多数)が力を入れた授業で書かれた作文の紹介で、女子生徒が自分が朝鮮人であることを知ったいきさつを読み終えたあとの、涙に濡れた顔に安らかな微笑がもれるシーンは本当に感動的でした。
 鑑賞後、在日2世の申静子(シンジォンジャ)さん(阿佐ヶ谷在住)のお話をうかがい、意見交換しました。
(片岡)



申静子(シンジォンジャ)さんのお話し



 この映画は民族教育の原点を示していながら、在日朝鮮人の間でも実はあまり見られていません。できるだけ多くの人に見て欲しいと思っています。
 記録としても非常に貴重であり、在日と日本の若者が共同で作り上げたという大きな意味もあります。いま見て、制作から53年たっているのに何も変わっていないことに大人としての責任を感じます。
 私は孫のためにも民族学校を守ることに一生懸命になっています。
 枝川朝鮮初級学校の立ち退き裁判で勝訴した時はうれしくて赤飯を20kg炊いて駆けつけたほどです。
 在日は、学校を中心にしてつながりを作り、地域の日本人学校とも交流しています。しかし正規の学校として認められてはいないので、経費はすべて自分達で調達して維持しています。授業料も高く、仕方なく日本人の学校に通わざるを得ない人も増えているのが現状です。
 こうした企画で在日のことをよく知って、世論を動かし流れを変えてほしいですね。

6月
6月のパーティは「東京視点」の代表として映像制作に取り組んでいる可越(クゥイェ)(元・もくれんの家の住人)さんのお話をうかがいました。


  
王光逖(ワングァンディ)(ペンネーム 司馬桑敦)
さんの映像


 可さんは2008年第30回東京ビデオ・フェスティバル受賞作「59年目の再会」を上映しながら話してくれました。
 可さんの母方の祖父である王光逖(ワングァンディ)さんは1949年、内戦下の中国本土から蒋介石(ジィアンジェシ)(しょうかいせき。1887〜1975年)率いる国民党の従軍記者として妻(可さんの祖母)と三人の娘を残して台湾に渡ったとのこと。その後の消息は家族にも知らされず、残された家族は歴史の荒波の中で、妻は過労とストレスで失明するほどの苦難を乗り越えて3人の娘を育てました。
 その次女の周励(ジュウリ)さん(可さんの母)が可さんと一緒に、父の足跡を追って王さんが特派員として過ごした日本、さらに王さんが晩年をすごしたアメリカを訪ね、59年目にその墓前で再会を果たすというドキュメントでした。
(茅原(ちはら))

日本の侵略が残した悲劇

  
お話しする可越さん(左)と
藤田梨那さん(右)


 パーティには可さんの招きで、文学者の藤田梨那さん(国学院大学教授)も参加。作家・王光逖(ワングァンディ)について、また自身、郭沫若(グォモロウ)(かくまつじゃく。1892〜1978年。中国の著名な文学者、政治家)の孫として、時代と歴史に翻弄(ほんろう)された家族の心境を語ってくれました。
 参加者の感想です。
 「中国の激動の物語は歴史の中にある昔のことなんて思っていましたが、つい最近のことだったんですね」「中国、台湾、米国と、海を超えて、いやおうなく辛(つら)い立場に立たされてしまった家族の話、感動しました」
(角取(かとり))

●入管法改悪・「在留カード」導入反対でデモ

  

 在日・滞日外国人の在留管理制度である「出入国管理及び難民認定法」(入管法(にゅうかんほう))の改悪法案が6月18日衆議院で強行可決されました。
 これまでは@自治体での外国人登録制度(外登法)と、A国家による在留管理制度(入管法)の二元的管理の下に置かれてきた在日・滞日外国人を、これからは「入管法」に統合・一元化し、国家による治安管理をいっそう強めるのが改悪法案の狙いです。
 90日以上日本に滞在する中長期滞在の外国人に法務省が『在留カード』を交付し管理する。『在留カード』が交付されない難民申請者や非正規滞在者は、これまで生きるために勝ち取ってきた最低限度の権利(学校入学、教育、保健)なども奪われ、摘発・追放される。永住者でも歴史性のある特別永住者のみを外国人住民台帳に組み込み、あらたな分断を持ち込むもの。「もくれんの家」の交流活動を通して出会ったすべての在日・滞日外国人に関わる攻撃です。参議院で廃案へ!
(片岡)


●「1923市民の会」の報告

『排外政策=「非国民」差別が招いた関東大震災時の朝鮮人虐殺 百年に一度の危機の時代、分断を乗り越えてアジア民衆の連帯を!』
森川文人弁護士、吠(ほ)える!


 「もくれんの家」が賛同し活動に参加している「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相糾明と名誉回復を求める日韓在日市民の会」(通称「1923市民の会」)の活動報告をこれから毎号お届けします。
 6月27日(土)、恒例の学習会が専修大学でおこなわれました。講師は2003年の日弁連勧告(日本国家に謝罪と真相究明を求めたもの)作成のメンバーの一人である森川文人弁護士(東京第二弁護士会所属)。森川さんは1923年と現在を対照し、酷似していることを明らかにし、経済危機を背景にした保護主義・排外主義に警鐘を鳴らしました。次回の学習会は9月26日(土)。「関東大震災 朝鮮人虐殺と植民地朝鮮」と題して韓国人研究者のノ・ジュウンさん(東京大学大学院)の講演です。詳しくはお問い合わせください。
(角取(かとり))


●忘れない旅、忘れられない旅(上)
 董頴(トンイ)



「この木の下に骨を埋めて」という桜の
木の下で。私と母(右)とおばあちゃん

 先輩の可越(クゥイエ)さんの紹介で「もくれんの家」に住み始めて、早くも10ヶ月になる。日本でずっと一人暮らしをしていた私に、「いい子ちゃんお帰りなさい!」と、毎日迎えてくれる96才のおばあちゃん(八木ヶ谷妙子さん)がいた。いつの間にか、おばあちゃんのおいしいおかずと笑顔いっぱいの励ましが忙しい留学生活の日々を乗り越えられる動力源になっていた。
 そんなおばあちゃんにある日、「私と一緒に中国に行こう」と誘われた。確かに前から、中国の王興業(ワンシンイェ)さんという実業家と20年間以上の長い付き合いをしていることは聞いていた。でもおばあちゃんは何をしに行くの? なぜ私も?
 行ったら何するの? と疑問を抱いた。それを分かったように、「中国に拍手しに行く。王さんとの付き合い方をあなたに見せるために行く。私が死んだら王さんの家のさくらの木の下に骨を埋めてくださいと伝えにいく」とおばあちゃんは答えをくれた。そして、26才と96才の旅が始まった。
 飛行機が北京に着陸した瞬間に、おばあちゃんは本当に拍手していた。日本にいる時に言っていた「中国に拍手しに行く」というのは少し抽象的に感じたが、着陸の瞬間におばあちゃんの思いが分かった。中国の成長を見て誰よりもうれしかった。中国のことを誰よりも関心を持っていた。その成長をずっと見守って96才になっても、また中国に来られた喜びが拍手の瞬間、リアルに伝わってきた。
 北京の新しい空港の大きさに驚きながら、ようやく安徽(アンホイ)省の省都、合肥(ハーフェイ)に到着。空港の車椅子の到着を待ちきれずに歩き出すおばあちゃん、子供のような心からのうれしい表情が顔に浮かんだ。空港を出ると迎えてくれたのは、王さんの大家族だった。皆がおばあちゃんを囲んで抱擁したり握手したりした。通訳を頼まれた私ですが、その時は、言葉が要らないと感じた。
 車はマンションに囲まれた立派なホテルの前に止まった。部屋に上がっていたら、なんとさっき通りかかったマンションの群れもこのホテルも全部、王さんの資産だと知る。しかもこの五つ星のホテルのような建物は非営利で、自分の親戚や友達など身内専用のホテルだという。驚きのあまりに、中国語での自己紹介はカミカミだった。通訳しながら、王さんとおばあちゃんのことを少しずつ分かってくる。
(次号に続く)

董穎さんのプロフィール
中国山西省太原市出身。18才で来日。
現在早稲田大学大学院で映画制作を研究中。
卒業制作は劇場公開をめざして準備中


●驚きの介護保険料
伊藤登美子


 65歳になって、雇用保険も取られなくなった。現金なものである。そして3月、仕事は終了。次はない。いよいよ年金暮らし。
 5月の初め、杉並区役所から「介護保険料のお知らせ」が届いた。年金から天引きというものだ。いやあ、びっくり。大幅に上がっている。3倍強である。65歳になって上がるのは何故?
 よくよく見ると、生活保護受給者からも1600円も取っている。杉並区は基準介護保険料を4000円と設定しているが、それに該当する年収は80万円である。これ自体、いったい何なんだ!?
 この杉並で月7万円以下の生活を考える。家賃、風呂代…その上、これは一人分である。夫婦、親子、老老介護…どう考えても、払える状況でないのに、天引きとは強奪に等しい。
 上限はもっと腹が立つ。収入1000万円以上は、保険料はたった7320円である。なぜ、80万円のたった1、83倍なのか。どういう理由で、妥当としたのか!?
 あまりにも、酷(むご)いので、中野区を調べた。基準介護保険料は4108円(年収125万円)。上限年収1000万円で、保険料は2、35倍の9575円。武蔵野市は上限年収2000万円以上だが第一段階が高い。それでも杉並区は最悪!
 杉並区は保険料を200円安くしたといっているそうだが、この感覚がまったくわからない。
 低所得者こそ介護に困っているのではないか。必要な人に必要な介護を政府の責任で保証すべきではないか。でなければ、介護保険制度自体を廃止するしかない!

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