ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第22号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

 ●第22号
(2010年7月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第22号(2010年10月)
●「ジャズで愛と平和を」―誕生日コンサート開催!

 

 10月22日、阿佐ヶ谷の東京朝鮮第九初級学校でジャズピアノコンサートが催されました。これは八木ヶ谷妙子理事長が97歳の誕生日に子供たちに贈ったものです。
 普通、誕生日というとプレゼントを受け取る日ですが、この企画は「生かされてきたことを感謝し人々に贈り物をする」というアイデアから生まれました。開催の背景には、まさに『もくれんの家』が目指す「共に生きる」ことを大切にした人々の出会いがありました。
 20年前、『もくれんの家』に住み、長年、理事長と交流を続けて来た中国人に許晶(シーチイン)(きょしょう)さんという女性がいます。彼女が今年、『もくれんの家』につれて来たのが国際的に活躍するジャズピアニスト、ケイコ・ボルジェソンさんです。ケイコさんは理事長の生き方に打たれ、誕生日にコンサートを贈りたいと申し出てくれました。それを聞いた『もくれんの家』のメンバーが、「それなら、交流を深めている初級学校の子供たちと一緒にケイコさんのピアノを聞こうではないか。理事長から子供たちへの贈り物としたら」と提案しました。理事長、もちろん大賛成。「愛と平和」をメッセージとして掲げるケイコさんも即答で了解。学校の協力を得て、全児童の授業のひとつとしてプログラムが組まれました。
 さて、当日。子供たちが講堂に「体育座り」をして座り、学校関係者と理事長や『もくれんの家』メンバーが壁沿いの椅子に座り見守るなか、銀色の華やかな頭飾りをつけたケイコさん登場。グランドピアノに歩み寄り、第一声、「みんなピアノのそばに来ていいよー」。子供たちはどっと彼女の周りに殺到しました。あっと言う間に初対面の壁を越えるケイコさんの鮮やかなステージが始まりました。
 ほとんどの子供たちはジャズを聞くのが初めてです。自在に動く指、張りのある声で歌うケイコさんをじっと見つめます。ハイライトはケイコさんが用意されていた太鼓を使って、子供たちと共にスワヒリ語「アマリタブサラマ!」「サラマ!」とかけあいながら歌った一曲でしょう。「愛と平和」を意味する言葉を時に早く、強く、大きな声で子供たちは叫びます。ケイコさんが英語で「オープン・ゲイト(扉を開け)!」と言うと、「オープン・ゲイト!!」と子供たちの透明な若い声が響き渡り、続いて「ユー・キャン・ビー・チェンジ(あなたは変われる)!」「タイム・トゥ・チェンジ(変わる時)!」、まさに楽しくて熱いジャズの即興の場面が繰り広げられました。最後はケイコさんの伴奏で、子供たちが朝鮮語の歌を理事長にプレゼント。理事長も「生きてるぞお。バンザーイ!」と手を高く掲げ、生きていることの喜びを、子供たち、ケイコさん、参加者全員と分かち合うひとときとなりました。ケイコさん本当にありがとうございました。
(角取(かとり))

 

●ニイハオ+アンニョン・パーティ屋外企画開催
 関東大震災フィールドワーク(墨田編)

9月18日(土)「ニイハオ+アンニョン・パーティ」の屋外編として「関東大震災フィールドワーク(墨田編)」をおこないました。
 1923年9月1日に起きた関東大震災時に6000人ともいわれる朝鮮人、多くの中国人、日本人社会主義者・労働者が殺されました。最も大きな被害と共に虐殺が吹き荒れたのが、荒川土手の西岸、現墨田区といわれています。私たちはその現場を、できるだけ9月1日に近い日に歩き、「暑い日だった」と伝えられる87年前の炎天下で何が起き、どのように伝えられているのかを自分の目と耳と足と感性でつかもうと計画しました。当地で発掘調査・追悼碑建立に尽力された「グループ ほうせんか」のご協力をいただきました。改めて感謝いたします。

記録から消えている朝鮮人虐殺
 快晴で残暑厳しい両国駅で参加者18名が集合し、案内役の西崎雅夫(「ほうせんか」代表)さん、鄭宗碩(チョンジョンソク)さんと合流し、国技館を横目に見ながらスタート。
 最初に訪れた東京都の慰霊堂と復興記念館には当時の写真や絵が展示され、震災の猛威が生々しく伝えられていました。しかし、虐殺を伝えるものはありませんでした。横網町公園の中に1973年(震災後50年)に建てられた朝鮮人追悼碑だけが朝鮮人の死を伝えていました。

  

同胞への追悼と平和への祈りこめた「感謝の碑」
 法泉寺(ほうせんじ)は鄭さんのお父さんを震災の混乱の中でかばい、虐殺から救った真田さんの菩提寺です。朝鮮人虐殺の事実を認めない日本政府や行政に対して「ならば事実を伝えるためにも感謝の碑を」と考えた鄭さんが韓国の陶芸家に依頼し空輸でこの地に建立したのです。
 故郷から離れ異国の地で非業の死を強いられた同胞への追悼と平和への祈りの込められた碑。鄭さんのお話に聞き入りました。鄭さんのお父さんも収容され、脱走したという旧・寺島警察署の跡地は今は独身寮になっていました。凄惨な虐殺がおこなわれ、また、選別された朝鮮人が各地に送られ、住民を動員して虐殺されたのです。

 

粘り強い発掘調査と追悼碑建立
 東京の東端を流れる荒川放水路は戦時事業として多くの強制連行の朝鮮人が働かされました。その荒川放水路の調査研究をおこなった小学校教師・(故)絹田幸恵さんが聞いた「殺して、死体を川に投げ入れ埋めた」という話から発掘調査は始まりました。その土手に立ち、広々と整備された河川敷の緑と川、京成電車の鉄橋、かつて木造だった四つ木橋を見晴らしながら西崎さんの説明をお聞きしました。凄まじい虐殺の証言に基ずく綿密な発掘作業にもかかわらず遺体は一体も発見されなかった。証拠隠滅がはかられたのです。
 しかし社会的関心は高まり、多くの証言が寄せられ、毎年慰霊祭がおこなわれてきました。昨年、土手の下に念願の追悼の碑が建てられ、虐殺の事実が明記されました。そうしたお話を聞き、荒川の風に吹かれながらしばし言葉を失う思いでした。
 最後は近くの八広(やひろ)小学校で参加者が感想を出し合いました。実際に現場を歩いた意味の大きさを語り、今後に繋げていく決意を新たにしました。また企画したいと話し合っています。
(茅原(ちはら))

 
                       資料を手に説明する西崎さん(中央)
                       と鄭さん(左から二人目)
                       【河川敷の土手。向こうに見えるのが鉄橋】

●朝鮮学校とつながって

 
 今回ピアノコンサートをプレゼントした東京朝鮮第九初級学校は「もくれんの家」から歩いて3分もかからない。入り組んだ道、住宅街の中にあります。戦後、地元で朝鮮人に世話になった方が、土地を提供され古材で立てたのが始まりです。
 在日朝鮮人の願いは祖国へ帰ること、奪われた言語・文化・歴史を取り戻すことでした。しかし、日本政府は戦争責任の補償をするどころか、1948年には民族教育を否定し閉鎖令まで出しました。それ以来、援助のない中で、学び、誇りをつないできたのです。私たちも、年に2回の夜会・バザーに参加するくらいですが、地域とつながろうとする学校、アボジ・オモニたちの活動、そして、卒業生たちの協力の熱心さに頭が下がります。知り合いも増え、活動も広がりました。こんななか、排外主義がまたぞろ活発です。古いピアノを贈る―こんな小さなことからも、私たち自身も、周囲も、変わることです。
(伊藤)

●「入管収容所」の闇に光を D 伊藤登美子

 面会行動に訪れた品川入国管理局の7階の面会待合室はエレベーターを降りてすぐにあり、ここもまた、狭く5、6人しか座れない長椅子だけ。3、4人が壁づたいにくっつくように立っているしかないぐらいの狭さ。私たち4人はエレベーター前の狭い廊下で待っていました。面会時間は一人10分という短さです。これで十分というのでしょうか? まもなく面会室へ。私にとってはよく見るあのJさんでした。眉を八の字にして自殺者が絶えないこと、4月22日のフィリピン女性の死のこと、自殺未遂者のこと。38万円賃金未払いを訴えている男性に、同じ法務省なのに、何故、支払いさせないのかなどなど…怒りを日本語の早口でぶつけてくる。憤懣(ふんまん)やるかたない様子。さらに、祖国で死刑宣告されていた教師が2、3日前に処刑されたこと、そのニュースの新聞をJさんにだけ送りつけてきた大使館への憤りが短い時間の中で目いっぱい語られた。二人目はニコニコして入ってきたTさん。TさんはJさんと握手。 この交流もまた、貴重。中で分断されているが、面会室で会えるからです。Tさんは、シャワータイムを終えたさっぱりした顔がより嬉しそうで、開口一番「今日、仮放免、うちへ帰れるね」。フランス語が母国語の彼に、一緒に行った友人がフランス語で話しかけると、「嬉しいね」と体中喜びいっぱいでしゃべる。「フランス語あまり話す人いないからね」。奥さんとも英語だそうです。保証金の話になると顔が曇り「50万円高いね」。本当にひどい!金が調達できないで出られない人もいるのは当然。難民申請が認められない上に、こんな法外な金で縛(しば)る卑劣さは許せない。 6ヶ月ぶりの帰宅に明るいTさんの笑顔に出会えた、このような例は稀(まれ)だそうです。前日の難民デー抗議・激励行動のスピーカーの声が収容されている人たちに届き、中で応えたという話を聞くと、面会行動も中と外、中と中をつなぐ、地味ですが国際的な連帯の大切な行動だということが実感できました。入管体制を打破するためにも、面会行動に参加しませんか?

●話題の広場
 釣魚台(ちょうぎょだい)(尖閣諸島)問題は戦争の問題

 9月7日に起きた海上保安庁の巡視船と中国漁船の衝突事件以来、日中間の緊張が急激に高まってきた。日本政府とマスコミは「日本固有の領土が中国に脅(おびや)かされている」と主張しているが、釣魚台は歴史的・地理的・国際法的に「中国の領土である」と言わざるを得ない。@釣魚台を最初に発見したのは中国人であり(1534年)昔から台湾の漁民が漁業のとき休憩地として使っていた。のちに琉球(今の沖縄)の漁民もカツオ漁などで使うようになった。A国際法的には日本は1894〜95年の日清戦争で台湾などを日本の植民地にしたが(1895年4月の下関条約)、その年の1月に釣魚台を「日本領土」に編入(=強奪)した。しかし、ポツダム宣言で「中国に返還すること」とされ、またそれ以前の1941年、日本の最高裁の判例でも「尖閣諸島は台湾所属」という判決がでている。B地理的には釣魚台は中国大陸棚に所属し、沖縄との間に水深2000mもの海溝があり、1958年制定の大陸棚条約に照らしても釣魚台の「領有・開発権」は中国にある。ところが1968年の国連の調査で釣魚台の海底に豊富な石油資源があることがわかってから、日本政府は突然「日本固有の領土だ」と言い始めた、というのが歴史の事実である。
 現在、中国では反日デモが起こり、日本では「中国を許すな。中国と戦争すべし」という排外主義・国益主義キャンペーンが高まり、右翼が反中国デモをおこなっている。この11月には「中国軍をせん滅する」という「尖閣諸島奪還作戦」と称する日米軍事演習がおこなわれる。こうして再び三度、戦争が準備され、始まろうとしている!
 私たちは支配者のいう「領土・国境・民族」などで自分たちを分断し敵対しあうのではなく、逆に連帯と団結を追求すべきだ。私はその思いで、米・韓・ブラジル・ドイツからも代表がやってくる「11・7国際反戦集会・労働者集会(日比谷野音)」に在日・滞日の中国・朝鮮の友人と一緒に参加し「中国人民との連帯」「中国への侵略戦争絶対反対」の声を上げます。
(片岡)

● 「もくれんの家」の留学生通信A


八木ヶ谷代表の誕生会で先輩留学生と。
中央が呂さん(2010年10月22日(金)

ルッちゃんこと呂衍妹(ルヤンシュ)さん(中国吉林省出身)がもくれんの家に下宿したのは2001年から1年間でした。本国で日本語を学んできた呂さんは流暢な日本語を使う、細くてキリリとした顔つきの優等生でした。食べることより勉強が大切とばかり、片手にサンドイッチで、まともな食事をしていないらしい日が続くと顔に吹き出物をいっぱいつくるありさま。夜中に「ゴキブリが出た!」と駆け込んできたり、「私が試験に落ちるなんて信じられない!」と泣き出したり、にぎやかで面白い日々でした。研究生終了後、大学院に進み留学生の寮に引っ越していきました。そのルッちゃんが大きな病気を克服して今や某大手企業の経営企画室のスタッフとして世界を駆けまわっています。先日、スウエーデンからこんな手紙が届きました。その一部を紹介します。


 …今ストックホルムにいます。
…今朝は早く目が覚めました。
 東京にいる時は日々の生活に忙殺され、こんな静かな朝にものごとを考える日はめったにありませんでした。思わず手紙を書きたくなってきました。人生って本当に不思議です。一緒に暮らしていた1年は実に楽しく大きな財産になっています。…今度のおばあちゃんの誕生日祝いには参加します。

● 多田富雄著『私のリハビリ闘争』(青土社)を読んで
 命がけの叫びを欺(あざむ)き、抹殺する厚労省とは?


 本年4月に亡くなられた多田富雄さん(1934年生まれ)は世界的な免疫学者として知られると同時に、脳梗塞の後遺症と闘いながら、厚労省の医療改悪に果敢に抗議し発言し行動した人としても有名です。2007年に発行された本著は2006年に厚生労働省が保険診療報酬の改定によって、突如、リハビリ医療打ち切り攻撃をおこなってきたことに対し「命がけで新聞や雑誌に論文を書き続けた」代表的な文をまとめたものです。引用(「」内の文)しながらご紹介します。
 リハビリ打ち切りとは「病気や障害の多様性、患者の個別性などを無視して、一律日数制限しようとした」「(報酬引き上げはあっても)医療を『切り捨てる』事態が起こったのは初めてである」と指摘されている通り、国民皆保険の下で保障されてきたリハビリ=生きるための治療を画一的に切捨て、必要なら自費で継続しろというアメリカ型の営利的保険に移行する動きでした。小泉内閣がおこなった福祉切捨て・民営化攻撃であり、「障害者自立支援法や療養病棟の廃止といった、一連の非人間的な医療改革の矛盾が、ここに一挙にむき出しになった象徴的事件だった」のです。
 多田さんは自らの体験をもとに「診療報酬改定に伴うリハビリ中止は死の宣告」と新聞投書で告発をおこない、それをきっかけに、全国で反対署名が始まり、さまざまな患者会のネットワークやインターネットを駆使し、署名はあっという間に44万を超えたのです。しかし厚労省はこの「血のにじむようにして集めた」署名を握りつぶし、欺瞞的な、反論にもならない反論と手直しを繰り返したのです。医療関係者も口を閉ざし続け、マスコミ(朝日新聞など)も「厚労省寄りの提灯記事を掲載するようになった」。多田さんの怒りはこうした政府・厚労省の「狡猾な」やり方に向かい、告発を続けていったのです。この一冊には今日の新自由主義の医療切捨て、福祉・公共部門の民営化=私企業による私物化に進む政府への怒りが具体的に鋭く出されています。
(茅原(ちはら))

● 「もくれんの家」の今後の予定

「もくれんの家」は毎月の第二土曜日、
午後4時から「ニィハオ+アンニョン・パーティ」を開いています
そのほか、ときどき、特別企画(講演会やフィールドワークなど)をおこなっています。2010年11月以降の特別企画は以下の通りです。
 お気軽にご参加ください

2010年12月11日(第2土曜日)【「パーティ」野外編】
朝鮮の寺・国平寺(こくへいじ)を訪ねる

●お話 尹碧巌(ユンビョガム)さん(国平寺住職)
 「なぜ、日本に朝鮮のお寺があるのか?−韓国強制併合百周年に際して−」

●ところ 国平寺(こくへいじ)(東京都東村山市萩山町1)
●集合場所・時間 小平駅・北口・午後2時
 (小平駅は西武新宿線・新宿駅から急行で約30分)
◆国平寺見学のあと「朝鮮初中級学校を支える
 小平市民の会」のみなさんと交流会をおこないます
■参加費(資料代)300円
◆交流会費 約3000円(プラス、追加のアルコール代)
国平寺(こくへいじ)
 本山は約三百年前、徳川幕府8代将軍徳川吉宗(1684〜1751)により建立されたという由来がある。そして約80年前に朝鮮から日本に渡来した高僧・柳宗黙(ユジャンムク)大禅師は仏縁によりこの地に立ち寄り、荒れ果てた堂塔を目にして嘆き、ここに、日本から故郷に帰ることが叶わなかった朝鮮人の遺骨を集めて供養したいとの思いで、この寺を引き受けた。その後、日本各地を歩き集骨し、その御霊を慰めるための供養塔も建立した。1965年に「祖国の平和統一を願う」想いから祖国の「国」と平和の「平」の文字を取って「国平寺」と名付けた。
 現在の三代目住職の尹碧巌(ユンビョガム)さん(1956年、京都に生れる)は「大禅師の志を受け継いだ尹一輪(ユンイルユン)和尚は、朝鮮と日本の不幸な過去の歴史を再び繰り返さないように、そして両国間の真の友好親善のために尽くされました。先々代、先代の志を継ぎ私も仏道に励み精進する」「寺は亡くなった人の供養のためだけではなく、生きている人のためにもあります」と語っている。在日朝鮮人民の民族教育にも尽力され、2007年には国連人権委員会で「朝鮮人強制連行」や「在日の人権」をアピールした。

2011年1月15日(第三土曜日)は「新年会」です
(当初、1 月8日とお知らせしましたが、都合で15日になりました。
 おまちがいないよう、よろしくお願いします)
◆新年会は世界のエスニック料理と日本のお国自慢料理(持ち込み大歓迎!)
 とアルコールを楽しみます
 どなたも気楽にご参加ください
●参加費、800円

八木ヶ谷理事長の97歳を祝う誕生会のようす。
ニイハオ+アンニョン・パーティはいつも手作り料理を楽しみながら、
さまざまなことを語り合っています。
(2010年10月22日。「もくれんの家」で)

2011年2月12日(第2土曜日)【「パーティ」特別企画】
関東大震災時における朝鮮人大虐殺と私−在日三代史を語る−

●お話 鄭宗碩(チョンジュンソク)さん
 (韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会・代表)
●ところ 「もくれんの家」
●午後4時開始(受付は午後3時30分)
●参加費 800円
鄭宗碩(チョンジョンソク)さん
 1942年12月、東京都葛飾区生れ(男5人、女3人の6番目)。日本の小・中・高校を卒業し、1962年に朝鮮大学・政経学部(東京都小平市)に入学(2年後の1964年に東京オリンピックが開催され、3年後の1965年6月に「日韓基本条約」と「在日韓国人法的地位協定」など調印される)。1966年に朝鮮大学(朝大)を卒業し、朝鮮総連・東京都本部職員となる。その後、朝鮮総連・愛知県本部、東京・江戸川支部で活躍。1995年に「韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会」を立ち上げ、現在にいたる。韓国の抵抗詩人・金芝河と親交がある。
 1923年9月1日の関東大震災における朝鮮人大虐殺の時、墨田区の製鉄工場で働いていた祖父母(鄭さんの祖父は1920年ころ「募集」で渡日し、北海道の夕張炭坑で働いていたが脱走。東京・向島で後述の真田千秋さんとめぐり合う)と父・鄭斗満(チョンドマン)(当時17歳。1923年7月に渡日)・叔母(斗満さんの妹)が工場長の真田千秋さんによって命を救われた。2001年3月、墨田区議会は「朝鮮人虐殺の資料は残っていない。慰霊碑を建てるつもりもない。建立は区民の利益に合致しない」などと答弁した。鄭さんはこれに言い知れぬ憤りを感じ、2001年9月1日に、墨田区向島にある法泉寺(ほうせんじ)(真田家の菩提寺)に、自費をなげうって「感謝の碑」を建立(金九漢(キムグハン)、申英愛(シンヨンエ)さんが協力)した。

「感謝の碑」の前で説明する鄭さん
(2010年9月)

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