ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第15号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年4月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第15号(2009年1月)
「すてきないのち」



私たちが生かされている無限大空間は常に動き続けて、
止まることはありません
水の惑星地球は、命を産み育て、生滅を続けて止むことがありません
鉄腕アトムは、生命の真実を見事なキャラクターとして、
永遠のいのちを吹き込んだ大作品です
人間はすばらしい生きものです
いじけた小さなものに陥ちこんだり、
引きこまれたりしてはなりません
すべて、存在は生々と展開する大自然の
中に身を托して流転するものですから!!
2009年1月1日
 八木ヶ谷妙子(95歳)


●国際交流活動の一層の発展をめざして

 08年アメリカに端を発した大恐慌が日本をも直撃し、若者たちの職場を次々と奪う厳しい時代となりました。「派遣」「契約社員」など不安定な雇用形態が幅をきかせ、労働者の当然の権利が奪われています。仕事も住む所も取り上げるこの社会のあり方そのものに怒りを感じながら新年を迎えました。同時に、全世界で労働者民衆の怒りのデモやストライキが続発し、新しい社会に向けた歩みも確実に始まっています。
 こうした時代だからこそ「誰もが安心して生きる」という「もくれんの家」の精神を生かしていきたいと思います。一人ひとりがバラバラでなく、尊重し合い、手をしっかり繋(つな)いで助け合う、そんな国際交流をいっそう広げていきたいと考えています。
 中国とのさらなる交流を深めながら、昨年は「関東大震災85周年」を機に在日朝鮮・韓国の方々との新しい出会いがあり、地域の皆さんとの連帯と交流もいっそう広めることができました。一人ひとりの歴史を聞き・学ぶことがとても大切だと思います。昨年12月の李さんの言葉(下の「在日日本人と在日朝鮮人が手をたずさえて」を参照)をかみしめています。在日と日本人民を民族差別で分断することを許さず、連帯と団結の道を進んでいこう、といっそう意を強くしています。

移送サービスの終了にあたって

 一方、「移送サービス部」は地域で助け合う活動として、熱心なボランティアさんに支えられてこれまで続けてまいりましたが、今年の3月には、いったん事業を中止することになりました。しかし、幸いにも「もくれんの家」にかわって二つの新しいNPOが誕生します。ご利用者様には、それぞれの移送サービスをご利用いただくようご案内しております。
 「もくれんの家」の精神がこうして引き継がれることは本当にうれしいことです。皆様にご迷惑のかからないように、スタッフ一同、いっそう気を引き締めて日々の運行に努めていきます。どうかよろしくお願いいたします。
(茅原(ちはら))

●「在日日本人と在日朝鮮人が手をたずさえて」
―李吉純(リギルスン)さんが「枝川ウリハッキョ」を語る

 昨年最後の「ニイハオ+アンニョン・パーティ」を通常より一週間早めて12月6日におこないました。「李吉純(リギルスン)さんが『枝川ウリハッキョ』を大いに語る』という集(つど)いに、会員や李さん縁(ゆかり)の在日朝鮮人の皆さんなど五十六人が「もくれんの家」に参集しました。李さんの体験をうかがい、その熱い思いに共鳴しながら、日本の労働者民衆が民族差別・排外主義とたたかい、在日の皆さんといかにして連帯・団結していくかを考える、確かな一歩を築きました。
(片岡)

 李さんは最初に、昨年5月におこなわれた「宋富子(ソンブジャ)さんの一人芝居に参加して心強く思った」と語り、「こうした場所を提供していただいた八木ヶ谷先生のご好意とご協力に感謝します」と切り出し、1時間以上にわたって体験談をお話しされました。ここでは、特に心に残ったことをご報告します。

1945年8月15日(日本の敗戦=朝鮮の解放)の夜の出来ごと

写真や地図を背にしてお話しする李吉純(リギルスン)さん

1941年2月、東京で生まれた李さんは45年当時、埼玉県東松山に疎開し、そこで「終戦」を迎えます。
 「非常に印象深いことがあります。8月15日の深夜に帰ってきたおやじがおふくろに向かって、髪を洗ってこい、と命じたんです」。そしてタンスの引き出しを開けて隠し持っていた大韓帝国の国旗を取り出して西側の壁に貼り付け「みんな立て、おじぎを3回やれ」と言ったとのこと。拝礼を終わってもお父さんはうずくまったまま。お母さんが、あんたどうしたの? と声をかけますが、「鬼のようなおやじが、くっ、くっ、くっ、と泣いている。おふくろがさらに心配になって、どうしたの? どうしたの? と、今度は朝鮮語でしゃべった。おやじがおふくろに何かしゃべった。おやじとおふくろが手を取り合って泣いている。おやじは東京で終戦を知ったんです。朝鮮人が集まって、おい、戦争は終わった。朝鮮は自由になった。植民地から解放されたんだ、と喜んでいたんです。私も兄貴もワンワンと泣きました」。

枝川朝鮮学校に転入し、朝鮮戦争反対闘争や血のメーデー闘争に参加

狭い部屋に55人が李さんの話しに聞き入りました

 李さんは当初、日本学校に入学し、ほどなく城東小学校に編入します。「内藤という名前で入ったんですよ。ところが次の日、やーい、やーい! あいつは李ーだ、リーだ! 朝鮮だ、チョーセンだ! と言われました。担任の細田という日本人の先生は、たいした悪さをしていないのに、私を教壇の脇に立たせ、ゲンコツをこう握って授業の間、僕の頭をコツコツやるんです。痛いのなんの。生徒からはケンカを売られ、先生からはいじめられました」「そういうことがあって夏休みになった時に両親と叔父貴が相談して、おい吉純、枝川に行って朝鮮人として生きろ!、もういじめられることはない、みんな朝鮮人だから、ということで枝川(東京第二初級学校。46年に開設)に行ったんです(49年9月)。ところが行ってみてびっくり。枝川は埋立地で東京の吹きだまり。朝鮮人と食いっぱぐれた日本人が住んでいて非常に劣悪な環境でした。梅雨時になると校庭はひざまで水浸し。家もオンボロ、長屋ですよ。ニワトリを飼ったり豚を飼っているので臭いがすごい、悪臭が立ち込めているんです。でも、一ヶ月くらいで学校に溶け込み、すっかり朝鮮人の生徒になりました」。
 「楽しい学生生活がおくれると思ったんですけどね。その当時、日本の社会情勢は革命前夜だったんですよ。子どもでも漠然とわかりました。この頃は帝銀事件(1048年1月)、下山(しもやま)事件(49年7月)、三鷹事件(同年7月)、松川事件(同年8月)、白鳥(しらとり)事件(52年1月)が起こりました。それが50年に始まり丸3年続いた悲惨な朝鮮戦争に集約されたんです。戦争が終わってたった5年、今度は自分の祖国で戦争が始まった」「この戦争でアメリカは太平洋戦争で使った爆弾よりも多くの爆弾を使い、非人道的なじゅうたん爆撃をやりました。日本に落とした原爆もそうだけど、これらを国際問題として糾弾する時がくるでしょう」「3、4年生から中学まで授業がないんですよ。毎日、闘争ですよ、ケンカですよ」。
 この過程は同時に、在日朝鮮人民の自主的民族教育に対する日本政府の圧殺とのたたかいでした。48年4月26日には神戸で16歳の金太一(キムテイル)少年が射殺される阪神教育闘争が起きます。東京の朝鮮学校は都立に移管となり、李さんたちは、ことあるごとに家宅捜索に来る日本警察と無理解な日本人教師とのたたかいの日々をすごします。
 そして「小学校6年の時、先生に引率されて『血のメーデー(52年5月1日)』に参加しました。15〜16メートルくらい先きで二人の若い労働者が射殺されました。即死です。労働者の祭典ですよ。これは殺人ですよしかし、裁判もおこなわれていない」。
 その後、夏休みになり、李さんは赤痢にかかって駒込病院に入院することになります。そこに二人の警官がやって来たのです。「誰に言われてメーデーに行ったんだ!?」。「素晴らしい看護婦さんが、あんた! 泣いてもかまわないから、なんにも言っちゃダメよ」と李さんを激励します。警官の声色(こわいろ)、目の色が変わってきましたが、李さんは「僕、くちびるかんで、ほとんど泣いていました」。結局、警察は「なんて強情なガキだ!」と捨てぜりふをはいて帰って行ったのでした。

大学教授の「偉大なる差別発言」を謝罪させる
 進学した明治大学では「フランス文学の大御所の中村光夫先生が授業で偉大なる差別発言をしたんです。世の中にアルジェリア人と朝鮮人ほど怠惰な者はいない、と言ったんです。授業を終えてから廊下で待ち伏せして糾弾し、とりあえず謝らせました。それにしても中村光夫でこれなのか!? アルジェリア人は知らないけど、怠惰な人間は怠惰なんで、マジメな人間はマジメなんです。人間はすべからく個に還元して評価すべきです。民族とか血液型で評価するのはやめましょう」。

日本人の協力があったから枝川初級学校は存続できた
 2003年12月に東京都・石原知事が突然、枝川学校を提訴、契約の期限切れを理由に4億円の土地使用料支払いと、建物の一部取り壊しなどを求めてきたのです。これに対して、教職員、保護者・生徒が一丸となってたたかい、学校を守ります(2007年、裁判で一億七千万円を支払うことで和解。学校側の実質勝利)。地域の日本人も大いに支援しました。また、このたたかいを通して、韓国の労働者民衆との連帯が新しく生まれます。
 李吉純さんは最後に語りました。「学校の危急存亡の時、枝川町の日本人の皆さんの協力や支援があったからこそ、何とかしのげたんです」「朝鮮人は日本人の手を借りなくても生きていこう、と自助努力はしていますよ。でも日本人の協力・友情は絶対に不可欠です」「共通の敵はあるんですよ。僕らはそれに対してコブシを振り上げる。在日朝鮮人と日本人は階級的には同じ土俵に立っています。統一戦線が大切(たいせつ)です。これからも、日本列島の在日日本人と在日朝鮮人をはじめとする在日外国人が協力する、お互いに仲良く手を携(たずさ)えていきましょう」と結びました。
 参加していた歌手の盧(ノ)さんが、朝鮮民謡『アリラン』を熱唱、大きな感動を呼びました。


 その後、手作りの料理とアルコールをまじえて交流会をおこない、さらに、李さんが経営する朝鮮風居酒屋「韓伽羅(カンカラ)」で二次会を楽しみ、この日の企画のすべてを終了しました。

「韓伽羅(カンカラ)」で二次会
【発言の詳細は、後日作成のパンフレットでお知らせします】

●北海道朝鮮学校生徒たちの感動のドキュメンタリー
  「ウリハッキョ」を見て考える




 10月のニイハオ+アンニョン・パーティは表記のドキュメンタリー映画を上映(10月11日。あんさんぶる荻窪)しました。
 「ウリハッキョ」とは朝鮮語で「私たちの学校」を意味します。韓国の監督キム・ミョンジュンが北海道の朝鮮学校を3年間に渡って取材・撮影し、1年6ヶ月をかけて編集したのが映画『ウリハッキョ』(2006年制作)です。
 「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相糾明と名誉回復を求める日韓在日市民の会」の活動を続けるなかでこの映画のただならぬ評判を聞きました。釜山国際映画祭でドキュメンタリー部門最優秀作品に選ばれ韓国の上映会場は号泣の渦とか、日本でも自主上映の形で10万人を越す人びとが見たとか。 今春、「ウリハッキョ」の言葉の意味すら知らずに東京郊外で行われていた上映会に行き、私も感動を共有、上映を決意して提案することとなりました。
 「もくれんの家」がある杉並・阿佐ヶ谷にも朝鮮学校(東京朝鮮第九初等学校)はありますが、正直に告白すると、いったいどんな学校なのか、そもそもどのように成り立っている学校なのか知りませんでした。チマチョゴリの制服を着ている生徒に対する通学途上での陰湿(いんしつ)ないじめがある、予算がなくて大変らしいなど、朝鮮学校について漠然(ばくぜん)とした情報しか持っていなかったのです。このドキュメンタリーを見て、そこに生きている子供たち、先生たちの生活の様、どんな喜びや苦しみ、葛藤(かっとう)があるのかを知ることができました。そして、子供たちの輝く笑顔や先生方の熱意に触(ふ)れながら、日本がどんな理不尽を在日の人びとに強(し)いているのか、ナイフを胸元に突きつけられるような事実の苛烈(かれつ)さを知ることにもなりました。
 さて、当日は定員いっぱいの41名の皆さんが来場。「感動した。何も知らなかった」「日本と朝鮮のこと、歴史について知りたいと思う」など、感想を聞くことができました。「知らなかった」ことを知ったら、その次に歩みを進めよう、2009年もまた小さくても確かな一歩一歩をニイハオ+アンニョン・パーティで刻んでいきたいと思います。
(角取(かとり))


●シュプレヒコールを共にして

 「ピージョンギョジュク チョルペ トゥジェン! キョルジャ トゥジェン!」(「非正規職撤廃・闘争! 決死・闘争!」)
 11月8〜11日、光るような紅葉のソウルに行ってきました。日本の11月労働者集会でアメリカ・韓国の労働者と交流するようになって5年。それに応えての訪韓も3年目。非正規職を組織する韓国民主労総の前夜祭と大会とソウル本部での理念交流会に始めて参加しました。
 9日、本大会を前に金属労組ソウル支部ハイテックRCDコリアの高圧鉄塔篭城(ろうじょう)闘争の現場に行きました。篭城から26日目、ハンスト16日目です。キム・ヘジン支会長の「権利を守り生存権を守り、民主労総を守る闘いです」と高い空からのメッセージ。キョルジャ トゥジェン!です。14時すぎ、労働者大会に合流。大学路(テハンノ)いっぱいに続々と労働者が集まってきました(全体で約4万人が参加)。私の右横に女性の隊列が何百いや千人位だろうか、鍋の蓋を叩(たた)いて大いに盛り上げていました。動労千葉の田中委員長が「正規・非正規に分けられるのが間違い。労働者はひとつ」と発言。全学連も元気に発言しました。
 韓国の労働者は「チョン・テイル烈士38年目」【チョン・テイルさんは1970年11月13日、軍事政権下の平和市場(ピョンファシジャン)(チョンさんが働いていた縫製職場)のあまりの劣悪な労働条件に抗議し「労働基準法を遵守(じゅんしゅ)しろ! われわれは機械ではない! 日曜日は休みにしろ!」などと叫んで全身にガソリンをかけ抗議焼身した。享年22歳】を総結集の日として労働者集会を開催、私も「労働者はひとつ」を実感し連帯できました。「この言葉を実践で」と言ったハイテックRCDコリア労働者の熱い言葉を胸に、平和市場とチョン・テイル像、光化門(クァンファムン)、西大門(ソデムン)刑務所歴史館、ソウル市庁前広場などを回りました。
 最後に、安重根(アンジュングン)義士記念館に行って、植民地下のたたかいを初めて知ったとき、「決死」=「生きる」という意味が、一歩わかった気がしました。私もキョルジャ トゥジェン!
(伊藤)


●話題の広場
在日・滞日外国人と一緒に「11月労働者集会」に参加しました
荒川みどり



 昨年の11月2日、動労千葉など3労組の呼びかけで「全国労働者総決起集会」が東京の日比谷野外音楽堂で開催され、日・米・韓の労働者5700名が集まりました。春の京都・東京で開かれた「反外登法・反入管法集会」を共に闘い、交流を深めてきた在日・滞日外国人の皆さんも大勢参加しました。資本・当局による首切り・リストラ・賃下げ攻撃に対し、それぞれの職場で激しくたたかってきた労働者の元気な報告が続きました。難民をはじめ滞日外国人も登壇して「難民不認定など日本の過酷な入管行政とたたかう」と熱烈にアピールしました。
 日本での昨年の難民申請者は1500名超、8月末現在で認定者44名、特別在留取得者279名です。日本政府は入管収容所への長期収容と退去強制で滞日外国人の排除政策をとり続けています。滞日外国人の皆さんは世界大恐慌のもとで生活と労働の場を真っ先に奪われています。しかし、こうした困難な状況にあっても、「生きさせろ!」とこぶしを上げる表情は解放感に満ちていました。また、息子と参加した在日朝鮮人女性は「団結という単語が血肉になるのを実感します。11月集会は、在日の私が一人の労働者として連帯できる仲間と出会う場です」と生き生きと語っていました。
 正規職・非正規職や民族・国籍・国境の分断を越えて全世界の労働者はひとつ。在日・滞日外国人との団結をさらに深めた一日でした。

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