ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第21号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第21号(2010年7月)
●もくれんの家」第8回総会開催(6月19日)

―2010年度の活動方針を確認

  6月19日(土)、阿佐ヶ谷会議室において「もくれんの家」の第8回総会を開催し、会員・賛助会員の皆さん計11人が参加しました(委任状7通)。
 最初に、スライドによる活動紹介をおこないました。毎月のニイハオ+アンニョンパーティの様子をはじめ、昨年9月の千葉での慰霊祭(1923年9月1日の関東大震災時の朝鮮人虐殺の)参加、11月の「ウリハッキョ」アンコール上映会、3月の高校無償化からの朝鮮学校排除に反対する署名活動、また杉並の山田区長の差別妄言に対する抗議・申し入れ行動などを振り返りました。
 09年度は特に、ニイハオ+アンニョンパーティを、参加者が語り手となるミニ講演会の形で進めました。また、近くの東京朝鮮第9初級学校との交流・連帯がより深まりました。それを通して、強まる排外主義・民族差別に立ち向かう活動もおこないました
 さらに特筆すべきは、難民申請中のビルマの方との交流が新たに始まり、日本の入管体制・入管収容所の実態に迫ることができたことです。
 2010年度は、これらの実績をいっそう充実させて、さらに実のある国際交流を深めていこうと確認しました。品川入国管理局に強制収容されている難民申請者、法外滞在者への面会行動も実施していくことを決めました。
 一昨年度いっぱいで中止した「福祉有償運送」に替わる、高齢者や障がい者福祉の課題にも取り組む準備も必要です。
 今年度も皆さんとともに歩んでいきたいと考えています。よろしくお願いいたします。
(茅原(ちはら))

●ニイハオ+アンニョン・パーティ屋外企画開催
 関東大震災フィールドワーク(墨田編)

9月18日(土)【9月は第3土曜に開きます】

 多くの朝鮮人が虐殺された墨田を歩きます。在日朝鮮人が連行された経路・虐殺場所をめぐる「その時なにが起こったのか?」を体感するフィールドワークです 
(協力:「グループほうせんか」、鄭宗碩(チョンジュンソク)さん)

■主な訪問場所
横網町公園(東京都慰霊堂・朝鮮人追悼碑・復興記念館)→法泉寺(「感謝の碑」)→旧寺島警察署跡→荒川旧四ツ木橋土手下(「関東大震災時韓国朝鮮人殉難者追悼の碑」)

◆フィールドワーク後、八広(やひろ)小学校にて懇談会をおこないます。5時終了予定。詳細は下記を参照ください。

 「9月1日」とは、どういう日か、皆さん、ご存知でしょうか? 一般的に「防災訓練の日」と言われていますが、今から90年近く前の1923年(大正12年)の9月1日に関東大震災が起きたとき、東京・神奈川・千葉・埼玉・群馬などで、朝鮮人の大量虐殺(6000人ともいわれている。諸説がある)、中国人虐殺(数百人。700〜800人ともいわれている)、そして無政府主義者の大杉栄や社会主義者・労働運動活動家が虐殺された(亀戸事件)日です。
 そこで、私たちは、在日朝鮮人が連行された経路と虐殺現場を歩きながら当時を想い、なぜ、このようなことが起きたのか? 再びこのようなことを起こさないためにはどうすればよいか? を考える一日にしようと9月18日(土)に、以下のようなフィールドワークを企画しました。
 万障お繰り合わせの上、是非ともご参加いただけますようご案内いたします。
■日時 9月18日(土)
■集合場所:JR・阿佐ヶ谷駅改札口 午前11時
  (またはJR・両国駅 午前11時50分)
■主な訪問場所:横網町公園(東京都慰霊堂・朝鮮人追悼碑・復興記念館)→法泉寺(「感謝の碑」見学・鄭宗碩(チョンジョンソク)さんのお話)→旧寺島警察署跡地→荒川・旧四つ木橋土手下(「関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼の碑」見学・「グループほうせんか」のお話)
*昼食時間はありません。食事をすませてご参加ください。
 また、バス代200円が別途必要です。
■フィールドワーク後、八広(やひろ)小学校で懇談会をおこないます
■午後5時、終了予定  ◆参加費 500円(資料代など)
●協力:「グループほうせんか」、鄭宗碩(チョンジョンソク)さん
横網町公園
 1923年9月1日の関東大震災と1945年3月10日の東京大空襲の犠牲者、合わせて163,000体の遺骨が安置されている。1973年に、関東大震災時に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼碑が建てられた
法泉寺
 関東大震災時に、祖父母・父・叔母を助けた日本人・真田千秋さんに感謝し、鄭宗碩(チョンジョンソク)さんが 2001年9月1日に「感謝の碑」を建てた
旧・寺島警察署跡
 関東大震災時、旧・四つ木橋や周辺の地域から多くの朝鮮人が連行され収容された。「署内で朝鮮人が虐殺された」「署の前には朝鮮人の死体が山と積まれていた」「署から旧・四つ木橋へ連行して虐殺した」などの証言が残されている
荒川・旧四つ木橋土手下
 旧・四つ木橋は震災時の避難経路であり、多くの避難民が集中した。また、荒川放水路の工事に従事する多くの朝鮮人がいた。そこの流言蜚語(りゅうげんひご)(デマ)が流され、軍隊の機関銃と自警団によって虐殺がおこなわれた。2009年9月、土手下の私有地に「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」が建てられた。

●1923市民の会インフォメーション

在日韓人歴史資料館 企画展示

*2010年9月1日(水)〜12月25日(土)
 「関東大震災時の朝鮮人虐殺と国家・民衆」
*9月11日(土)14:00から16:00
 記念セミナー(要・事前申込み)
●田中正敬(専修大学教員)
 「震災時の朝鮮人虐殺を総合的に捉える−地域での調査が明らかにしたことと国家責任」

●ニィハオ+アンニョン・パーティの報告

 5月は滞日19年になる難民認定申請中のビルマ人男性Hさんをお招きしてお話を伺いました。
 「もくれんの家」では難民や滞日外国人、入管収容所のことを知りたいと一年ほど前から学習を重ねてきました。そんな折、品川入管収容所の待合室で知り合ったのがHさんです。お迎えできるこの日を心待ちにしていました。
 彼は学生だった1988年、ビルマ民主化運動に参加、軍部が政権につき弾圧が強まるなか、政権が代わればいずれビルマに帰れるという思いを抱いて日本へ出国。しかし、いまだに母国は軍事政権下にあり戻れないこと、2005年には都内で「在留資格が切れている」と警察に呼び止められ、犯罪も何もしてないのに品川収容所と茨城県牛久(うしく)収容所に強制収容され、憤怒(ふんぬ)とストレスのうちに収容生活を送ったこと。そして、この過程で難民申請をし、現在は3ケ月ごとに決められた日時までに入管への出頭を強制されていることなどを語ってくれました。
 さらに、「収容中、近くの居室の青年が病気で倒れたまま当局に放置され、支援者に連絡して面会に来てもらい、数日後には元気になった青年を見かけて本当にうれしかった」ことなど、厳しい収容所生活の様子も話してくれました。「難民申請を認めさせるということもあるが、何よりも収容は直ちに中止すべきだ。自分も二度と収容されたくない。一日中室内で過ごす被収容者にとって面会はとても気分転換になる。ぜひ面会行動に取り組んで」と言っていました。 彼は現在、難民や入管収容所の実態を多くの人に知って欲しいと、要請があれば出向いてお話をしているそうです。
 この日の出会いは「もくれんの家がまたひとつ世界と繋(つな)がった」(八木ヶ谷代表の感想)ものとなり、6月22日の品川収容所への面会行動にと引き継がれました。
 Hさん、これからもお仲間をさそって気軽に「もくれんの家」に足を運んでください。みんなで楽しみにしています。
(荒川)

●「入管収容所」の闇に光を C  伊藤登美子

初めて品川入管に行って

 茨城県牛久(うしく)市の「東日本入国管理センター」
(牛久入管)には現在、世界各国から100名を超える難民申請者が収容されています。世界難民デー【注】の6月20日(日)、牛久入管収容所問題を考える会(田中喜美子代表)の人たち20人ほどがJR常磐線の牛久駅前で午前9時から午後9時まで、ビラ1700枚ほどをまき、2人がハンストをして、収容所の劣悪な現状と収容者との連帯をアピールしました。
【注】国連が2000年に6月20日を世界難民デー(World Refugee Day)と定めた

5月のビルマ人Hさんのお話を受け、6月22日、品川入管収容所に面会行動に行ってきました。私たち4人は品川駅の改札を出て、鯨(くじら)のおなかのようなコンコースを人々と一緒に吐き出されていきます。そこは聞いていたようにIT産業らしく真新しい奇抜なデザインのビルが圧倒していて、出入国管理事務所へのバス案内の看板が場違いな感じさえします。午前8時半なのに、バス停には入管行きのバスが次から次へと入ってきます。橋を渡って、「あれが入管よ」といわれた建物は単なる奇抜なデザインではなく、異様であり、拘置所のように最上階の方は放射状になっていて、運動場といわれたところは屋根つき屋上のもので、他のビルとはまったく違っていました。
 建物の大きさの割には、入り口が小さく、それも二つに分かれており、右は申請、左は面会の受付でした。待合室は20人ぐらいが座れるところです。5人の面会を要請しました。しかし、すでに牛久(うしく)に送られている人もいて、二人の人に面会ができるとのこと。早くも厳しくめまぐるしさを感じます。
(続く)

●インタビュー
 「高校無償化」から朝鮮学校を排除することは新たな民族差別であり、断じて許されない! 粘り強くたたかう!

 今年4月から「高校無償化」が始まり、中華学校、東京韓国学校、独逸学園など計31校の外国人学校・インターナショナルスクールも無償化の対象となりましたが、「朝鮮学校」だけは排除しています。この民族差別に抗議して活動してこられた金俊一(キムジュンイル)さん(東京朝鮮第9初級学校 アポジ会OB会・朝鮮初中級学校を支える小平市民の会)と任京河(イムキョンハ)さん(朝鮮大学准教授)に、7月12日、お話を伺いました。
金さんは1961年、東京生まれ。第9初級学校、北区十条の中高級学校、朝鮮大学校を卒業。現在、小平市で焼肉店「平和亭」を経営。
任さんは1963年、千葉県生まれ

―アンニョンハセヨ。「もくれんの家」も署名活動に参加してきましたが、署名はどれくらい集まったのでしょうか? 
署名は50万筆を超えた!
●6月末集計で全国で50万筆を超える署名が集まりました。その内、第9初級学校(杉並区阿佐ヶ谷)で直接集約したのは1573筆です。多くの方が応えてくれて感謝しています。
東京・小平市議会で「排除反対」の意見書採択
―理解が薄いといわれていた小平市議会で「朝鮮学校を高校無償化から排除しないことを求める意見書」が6月29日に採択されたと聞きました。
●指紋押捺拒否闘争が高揚した1980年ころから小平市では外国人登録原票を公安警察に見せていたんですね。96年ころに発覚し大問題になりました。また朝鮮大学のグラウンドへの初級学校移転計画を右翼が妨害しました。そこで、私たちは6〜7年前から「小平市民の会」などを作り、良心的な人々と協力して議会各会派での勉強会、朝鮮高校の文化祭への招待、ピョンヤン・ソウル・小平の子どもたちが未来を描く「日朝絵画展」の開催、映画鑑賞会などなど、理解を深める地道な活動を続けてきました。90年代になると朝鮮高校卒業生は日本の大学の受験資格を得、高校生は日本高野連に加盟したりインターハイに参加できるようになりました。またJRが朝鮮学校生徒の通学定期の割引率を一条校並にすることを決定するなど、いずれも粘り強い闘いの成果です。それらが今回実を結んだと思っています。
子どもたちを標的にした汚いやり方が許せない
―50〜53年の朝鮮戦争に向かう過程では、在日朝鮮人連盟が解散させられ、民族教育への弾圧、レッドパージ、松川事件などを口実に弾圧が吹き荒れました。今の状況はそれに似ていると思うのですが。
●まったく同感です。政治的な問題を民族教育と結びつけて子どもたちを標的にするやり方は本当に許せません。民族差別に対する闘いと戦争反対の闘いは一体です。鳩山が普天間の問題と朝鮮半島をからめてきましたが、これは一番きたないやり方です。本土の人たちは米軍基地に反対する沖縄の人々の思いと意識にもっと近づくべきではないでしょうか。
8月の結論に関わらず粘り強い運動を
―5月の「入管法反対集会」でもアピールしていただきましたが、感想と今後の課題について一言。
●難民申請者の現状は在日1世の苦闘と重なり、日本は差別社会だと改めて思ったし、同時に、連帯すべき人々は多いと感じました。
 無償化問題は8月に第三者機関が結論を出すそうですが、結論いかんに関(かか)わらず朝鮮学校に実際に必要なたくさんのこと(運動場整備、補助金問題など)を行政などに粘り強く要請していきたいと考えています。

 

朝鮮学校の高校生や大学生も立ち上がった。3月と6月に高校生・大学生・保護者・日本人支援者などが各1000名ほどで集会・デモを敢行。金さんは「大人の責任で解決しなければならないし、なによりも日本政府の責任だ」と語る
(写真は6月集会)

●沖縄訪問の記

碧い海に囲まれた島は今も戦い」の歴史を刻んでいた


美術館の庭には沖縄戦での死者の数を
想定した石が置かれていた

 初めて沖縄に行ってきました。
 目的のひとつは丸木位里(いり)・俊(とし)ご夫妻の『沖縄戦の図』を収めた佐喜眞(さきま)美術館を訪ね、絵を見るとともに館長の佐喜眞道夫さんに会うこと。6月、埼玉にある丸木美術館を訪れ、どの自治体も寄贈の申し出を受け入れなかった『沖縄戦の図』と、その事実を知って怒り、「自分がやります」と告げ、10年かけて自費で美術館を建ててしまった人物、佐喜眞道夫さんを知りました。
 普天間基地に突き出すかっこうで建つ美術館で出会った『沖縄戦の図』は交響曲のような絵でした。悲しみや怒り、恨みや祈りが響きあう大きな絵。家族同士が殺し合う日本軍の強制による集団死のディテール、日本兵に拷問を受け殺害されるスパイ容疑の娘、強制連行ののち虐殺された朝鮮人‥‥、端から端までいくら見ても見尽くせない物語のある具象画であり、強くて重い感情と意志を腹の底に押し込まれるような、血の赤と海の碧と闇の黒の抽象画でした。
 「もの想う空間」を意図したと話す道夫さんの細かな心配りが生きた空間で、丸木夫妻から確かに遺志を受け継いだ人の言葉を聞きました。道夫さんは修学旅行で訪れる中高生には必ず絵の説明をします。彼は語り部です。妻の加代子さんは炎天下の屋上で、「基地が望める場所だから」と、慰安旅行で訪れた人々に沖縄のおかれている状況を「基地は『沖縄の問題』ではない。ヤマトの、あなたたちの問題なんです」とメガホン片手に熱く語っていました。彼女もまた継ぐ人。
 いかに記憶や過去の事実を継ぎ今何を語るか、が、ひとりの市民として、また実作者(版画家)としての私の課題です。
(角取(かとり))

●「もくれんの家」の留学生通信@

 「もくれんの家」には「国際みんなの家」という看板がかかげられています。敷地内のアパートには1980年代末から、中国からの留学生が生活し巣立っていきました。現住人の黄君(20歳)で8人目です。もくれんの家の国際交流の基礎といえます。日本語をマスターしアルバイトをしながら学校を卒業し、それぞれの進路に進んでいます。先日帰国した王嘯風(ワンショウフー)さんのお礼の手紙の一部をご紹介します。
 『東京に住んでる時のことをよく思い出します。お婆さんのような方に出会えることを幸せだと思います。……お婆さんの家の庭がよく目に浮かびます。桜の木、池、金魚と、毎日歩いた小路などなど、思い出すと幸せが心の中で広がります。短い3ヶ月でしたが美しい日本を心に刻みました。心より感謝しています。感謝以外、僕のできることは、お婆ちゃんの健康を祈るばかりです。そして再会することを期待しております。他の皆さんにもよろしくお伝えください。』

● 小規模作業所はどうなっていくのか?

 3月のニイハオ+アンニョンパーティでは「福祉作業所で働いています」というテーマでお話をしました。私が働いている作業所は1980年代の「障がい児も普通学級へ」という運動の中で、卒業後の活動の場として、保護者たちの力で作られたものです。こうした作業所は全国に6000箇所あるといわれています。そこでの毎日は「知的障がい」と言われる個性豊かなメンバーと一緒にパンを焼いたり機織をしたり、楽しい行事などですごしています。
 しかし、自立支援法成立以降、自治体直営の作業所が次々と民営化され、福祉予算が削られる中、運営は厳しくなっています。「就労、就労」とせきたてられ、職員も、通所の利用者も、何か気ぜわしく追い立てられるような雰囲気が広がっています。メンバーも職員も、個性に応じて、ゆっくり楽しく、にこにこと過ごしたいものです。「なぜそこで働いているの?」と聞かれて「楽しいから」と答えた気持ちがいつまでも続き、共に生きる社会が広がるようにと願っています。
(茅原)

ホーム | 設立趣旨書 | 活動内容 | みんなの家 | 交通案内

もくれんの家ロゴ このページのトップヘ