ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第18号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第18号(2009年10月)
●千葉県八千代市の慰霊祭に参加しました

 9月6日(日)、千葉県八千代市の観音寺でおこなわれた「関東大震災86周年虐殺被害者慰霊祭」に八木ヶ谷代表と会員4名が参加しました。厳しい残暑の中、40人あまりの列席者が、あの日、戒厳令下で捕らえられ、警察・軍隊そして民衆によって無念にも虐殺された朝鮮人犠牲者の霊を心から鎮魂しました。来年は「韓国併合」百周年の年です。虐殺の事実をあらためてとらえかえし、深めたいものです。

繋がれた人に思いをつなぐ

 

 八木ヶ谷さんが朝鮮人虐殺を目撃した大和田(おおわだ)・萱田(かやだ)地区を初めて訪ねました。東京から35キロ、虐殺された朝鮮人たちはどのように移送されたのだろうか? 成田街道を行き、大和田地区に入ると、街中に突然、不釣合いな自衛隊・習志野駐屯地の大きな石の門が見えます。基地の芝生が長々と続く。朝鮮人たちが当時の習志野練兵場に収容され、各村々に振り分けられたことがよみがえりました。
 観音寺で供養をすませてから、いよいよ虐殺現場の萱田へ向かいます。メインストリートから少し入って上ったところが共同墓地でした。
 あぁ、ここが八木ヶ谷さんが逃げ帰るようにして家へ帰った坂道。奥まった真ん中に供養塔が立っていました。
 関東大震災時の朝鮮人虐殺は、当時の為政者が戒厳令を敷き、日本国民に参加させて引き起こしたのです。植民地化は国内・外でもあり、戦争は宣戦布告だけで始まるのではない。国内でも始まっていたのです。軍隊だけが戦争するのではない。こうしたことを繰り返さないために行動しなければならないと心に刻(きざ)みました。
(伊藤)

八木ヶ谷代表があいさつ

私は確かに目撃しました。その事実は消えません。
あの青年は国を追われ、異国の地でなぜ殺されなければならなかったのか。こんな悲しいことはありません。彼とともに号泣します。ますます彼とともに生きています。
皆さんがこうして集まり、忘れないでくださることに感謝します。

「ニイハオ+アンニョン・パーティ」の今後のスケジュール
●10月10日(土)午後4時〜 「もくれんの家」にて
平形千恵子さん(「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼調査委員会・事務局」)のお話を聞く会
●11月14日(土)午後2時〜 阿佐ヶ谷地域区民センター
「ウリハッキョ」アンコール上映会
●12月12日(土)午後4時〜 「もくれんの家」にて
忘年会

●ニイハオ+アンニョン・パーティの報告

7月 在外日本人でいること

 「一人ひとりに語ることがある」をテーマに、今回はいつも司会役を引き受けている角取(かとり)さんから5年間のベルギー生活の話を聞きました。
 まずはベルギーとはどんな国かの概要から。オランダ語圏とフランス語圏があり、政府も二つあって、そのために翻弄され、危(あや)うく「強制退去」されそうになったこと。それも外国人として職を得ることの困難さからだったというのです。
 移民労働者への根強い差別と貧しさからのいがみ合い。パリの街角で「中国人は帰れ!」と怒鳴られ、「私は中国人ではない」と答えると相手の態度が変わったこと。この経験が関東大震災の朝鮮人虐殺の自警団・民衆による虐殺の事実といつもかさなって「殺す側になったかもしれない自分」を意識することになったこと。
 また、ナイジェリア人の20歳の女性が難民申請を拒否され、強制送還に激しく抵抗して殺された衝撃的な事件(1998年、ベルギー)の話には、「同じ思いで、どれだけの外国人が日本で難民申請しているのだろうか? 国境という壁がどんなに人々を分断し苦しめ、殺しているのか」を考えさせられました。

 

(茅原(ちはら))

(8月はお休みしました)

9月 私にとっての朝鮮人虐殺

 これまで「もくれんの家」では、この大きな問題へのアプローチを続けてきましたが、この辺で各自の問題意識を語り合おうと集まりました。参加者は10名。いつ、何によって、どんな契機で「関東大震災時の朝鮮人虐殺」を知ったか、リアルな問題として意識するようになったかを話し合いました。
 「日本では1960年代の前半までは、朝鮮人虐殺よりも、日本の社会主義者や労働運動活動家の虐殺(大杉栄虐殺や亀戸(かめいど)事件など)の方に力点がおれていた印象が強い」「日韓条約反対が契機。差別問題のひとつとして韓国・朝鮮問題を考え、金芝河(キムジハ)や徐勝(ソスン)兄弟の支援活動に関わったが、震災時の虐殺については詳しくは知らなかった」「在日の問題はどちらかと言えば差別問題としてとらえていて、震災時の虐殺を身近には感じていなかった」
 参加者の多くは、虐殺の目撃者である八木ヶ谷代表と出会い、「もくれんの家」の活動を通して詳しく知るようになったようですが、在日三世の参加者は「三国人発言をする石原慎太郎が都知事で居続けられるとはどういうことなんだろうと思う。ある時、寿司屋で隣り合わせた男性がこんなことを言っていた。『三国人なんてわけのわからないものは、東京湾に投げてしまえばいいんだ』と。そういう人たちにどんな言葉を投げたらいいのかを考えている」「朝鮮人と交流のあった人は虐殺を起こしていない、むしろ逃がすことに力を尽(つ)くしている。出会っていれば起きなかった」と発言。また「多感な少女だった」と前置きした参加者は「中学生で朴慶植(パクキョンシク)さんの著作『朝鮮人強制連行の記録』(1965年。未来社)を読み、関東大震災時の虐殺について知り考え始めた」と語りました。
 この本は震災時についての記述は本文にはわずかしかありませんが、巻末資料として被害者と加害者のなまなましい強烈な証言が収められています。
 祖母から聞いた話を紹介した参加者もいました。「虐殺そのものを見たわけではなかったようですが、『夜になるとかがり火をたいて近くのおじさんたちが集まっていた、その大人たちの目が、吊り上がっていて怖かった』」と。震災後、小学生たちが書いた作文の多くに「地震は恐かったが、朝鮮人殺しのほうがもっと怖かった」という記述があるのを思い起こします。
 いま、再びあのような惨劇が起こるか、起きないか、いや、起こさないようにするにはどうしたらよいか、ひとりひとりに投げかけられた課題です。
 最後に八木ヶ谷代表の発言、「歴史をどう認識するか。そして、なぜ、起きたかを考えることが大事です」。
(角取(かとり))

「関東大震災における朝鮮人虐殺の真相究明と名誉回復を求める日韓在日市民の会」(通称「1923の会」)の報告

■ 8月11日?13日 埼玉・群馬スタディツアー実施
 韓国から12名、九州・山口から4名、関東圏からのべ13名、計29名が参加して86年前と同じ炎天下の埼玉・群馬の虐殺現場、慰霊碑、墓など10カ所を歩きました。各所で長年調査研究を続けてこられた先生方の詳しい説明を聞き、韓国から持参した松の木の卒塔婆(そとば)を供え追悼の思いを捧げることができました。
■ 8月22日 第3回世界歴史NGO大会(於・ソウル)でセミナー開催
 前田朗(あきら)(東京造形大学教授)、森川文人(弁護士)他をパネリストとして、韓国で通算4回目となる集まりを持つことができました。
■ 次回学習会案内 11月28日(土)午後2時より。
 講師・坂本昇(元70・80周年記念行事実行委員会事務局長・歴教協会員)。於・専修大学神田校舎ゼミ42室
 【問い合わせ 080(6707)6398 角取(かとり)まで】

●北海道朝鮮学校生徒たちの感動のドキュメンタリー
 「ウリハッキョ」ーアンコール上映会

 「もくれんの家」は昨年10月、表記のドキュメンタリー映画の上映会をおこないました(「会報 もくれんの家15号」参照)。その後、12月には李吉純(リギルスン)さんに「枝川ウリハッキョ」と題して東京朝鮮第2初級学校(枝川朝鮮学校)のお話しをうかがいました。
 また今年5月にはドキュメント映画『朝鮮の子』の上映会をおこない、日本における在日朝鮮人の民族教育の実態や、それにかける思いを知りました。一方で植民地政策そのままに在日朝鮮人への民族圧殺とも言える民族教育の否定、弾圧、抹殺攻撃と抵抗のたたかいも学んできました。この上映会には、東京朝鮮第9初級学校(阿佐ヶ谷朝鮮学校)の「オモニ会」の元会長で阿佐ヶ谷在住の申静子(シンジォンジャ)さんが参加し、お話ししてくださいました。それをきっかけに「『ウリハッキョ』を前回見られなかった人のためにもう一度上映したい」「若い在日の人たちと地域の日本人にも見てほしい」という声が上がりました。
 第9初級学校は「もくれんの家」のすぐそばにあります。勉強やスポーツに励む子供たちの元気な姿を見るにつけ、もっと親しくなりたいと思っていました。アンコール上映会はその一歩になるのではと企画を進め、申(シン)さんはじめ、第9初級学校の教職員、アボジ会、オモニ会、OBの皆さんなどのご協力をいただき実現にこぎつけました。多くの方の参加をお願いいたします。当日のスタッフも募(つの)ります。

日時 11月14日(土)午後2時から
場所 阿佐ヶ谷地域区民センター
     3階・第4、第5集会室
資料代  大人500円、中高校生300円(小学生以下は無料)
*終了後、交流会をおこないます

●話題の広場
「韓国サンヨン自動車工場占拠ストライキ」VTR上映会に参加

 9月19日(土)、東京・京橋区民館での表題の上映討論集会に、鄭宗碩(チョンジョンソク)さん(「韓国・朝鮮・在日と日本の歴史と文化を知る会」代表)たちと一緒に参加しました。
 サンヨン労組は、1980年の光州(クァンジュ)蜂起と87年5月の韓国民主化闘争を引き継ぐ「87年労働者大闘争」の渦中に結成され(2005年段階で組合員5736人)、2007年に韓国民主労総に加盟した労働組合です。
 本年4月、サンヨン自動車が「整理解雇」を発表したことに対し、5月から組合員800人が工場を占拠して無期限全面ストライキに突入、77日間にわたる壮絶なたたかいを繰り広げました(8月に労組と会社で「合意」が成立)。会社は水・ガス・電気を止め、会社が組織した「救社隊」や武装ガードマンが鉄パイプを手に襲撃を繰り返す、また李明博(イミョンバク)政権が差し向けた戦闘警察の無法な暴力のかずかず。労働者もヘルメットと鉄パイプで武装して対決し、支援に駆けつけた家族や民主労総の他の組合員とともに「死を決意して」たたかいぬく、手に汗握り息詰まる映像は、かつて私が体験し見聞した1969年の東大安田講堂攻防戦、三里塚闘争、60年の三池闘争、さらには45〜46年の読売争議闘争などをはるかに上回る凄(すさ)まじいものでした。この闘争に対し、動労千葉が支持決議をあげ、アメリカでもサンフランシスコの韓国領事館前で抗議行動がをおこなわれました。
 サンヨン労組は8月下旬、闘争の中間集約・総括をおこない、解雇された労働者を先頭に「物販(ぶっぱん)闘争」(全国の労組・職場を訪問し、物資販売をおこないながら、解雇者の生活を支えるとともに闘争勝利への支援を訴える闘争)を展開しながら、職場復帰に向けて一層の団結と決意を固めている、との報告でした。討論では牛久(うしく)(茨城)や品川入管収容所への面会行動が呼びかけられ、浜松の日系ブラジル人労働者のたたかいなども報告されました。また、動労千葉などが呼びかける「11月労働者集会」【11月1日(日)正午・日比谷野外音楽堂】への参加も訴えられました。この集会には、韓国民主労総やアメリカ、ブラジル、イタリア、フィリピンなどからも代表がやってきます。国境・国籍・民族を超えた連帯こそが未来を開くと確信しました。
(片岡)

●忘れない旅、忘れられない旅(下)
薫(トン)頴(イ)

 30年前、共通の知り合いの紹介で、おばあちゃんと王(ワン)さんが出会った。
 中国改革解放の初期、建国初の「個人でも企業を作れる」という政策の誕生とともに、王さんは少ない給料だが安定した工場の職業を辞めて、一家の生活のために起業しようと考えた。しかし、一番最初に起業の資金がないという大きな壁にぶつかった。そんな時に出会ったのが、おばあちゃんだった。「苦労をした人こそ起業するなら全力で努力するから成功するでしょう」と言って、王さんに資本金を無償で渡した。そのおかげで、王さんは一歩一歩事業の規模を拡大して、今日のように不動産、運輸、ホテル・レストランサービスなどの広い業界に渡る大手総合商社にまで成長できた。
 以来、おばあちゃんは40回くらい王さんの所を訪ねて企業の成長をずっと見守ってきた。おばあちゃんがずっと言っている「中国とともに生きる」ということの意味が、そこにあると思う。
 夕食に招待されて、王さん一家16人の大家族と一緒にテーブルを囲んで、思い出話に花を咲かせた。家族全員が揃っての夕食はお正月の時にもなかったという。すべてが、96歳の高齢にしてわざわざ遠い日本からやってきたおばあちゃんのためだった。家族の一員として受け入れてくれた。
 念願の桜の木の前で王さんとおばあちゃんの写真を撮(と)った。しっかり握っている手と手の間には、本当の日中友好の希望が見えた。短い四日間だったが、王さん一家とすっかり仲良くなった。帰りに、「今度いつ来るの?」って聞かれた。その一言でおばあちゃんは30年間も通い続けたという。思わず、おばあちゃんと同じ気持ちになった私が「近いうちにまた来たいです」と答えた。
 出かける前にあった疑問がすべて解けた。おばあちゃんも王さんも、真心で付き合っているから、言葉の壁を越えて深い絆ができていると思う。
 「おばあちゃんが死んだら、骨を桜の木の下に埋めてください。そしたら皆と永遠に一緒にいる」と王さんに伝えた。王さんは深く頷(うなず)いて、おばあちゃんの願いを受けてくれた。それを通訳した私が深い感動を覚えた。 (了)


●「入管収容所」の闇に光を @

東京入国管理局をご存じですか。品川埠頭(港区)にあります。開設は2003年。日本にいる外国人の在留手続等の業務をおこなっていて、様々な外国人が出入りしています。
 今年の春、法外滞在を問われ、父親の収容・母親の仮放免の末に、両親の国外退去で家族が離散させられた中学生のカルデロンのりこさんが、泣きじゃくりながら報道陣の取材に応じたのが、この東京入管局の建物の前でした。建物の8階から上には入管収容所(通称)が併設されています。強制送還される可能性がある外国人が収容される施設です。カルデロンさんの父親もここに収容されました。品川収容所のほかに、茨城の牛久(うしく)、大阪の茨木、長崎の大村と全国にある収容所には、法務省が「収容所は送還までの間、一時留めおく施設」などと言う建前とは裏腹に、収容と送還に脅えながら2年も3年も長期にわたって収容されている人もいます。入管収容所は滞日・在日外国人の怨念(おんねん)の的(まと)です。
(荒川)

●障害者自立支援法は廃止へ

 「障害者」と一括(くく)りに言いますが、「障害とは進行する概念であって、障害は、他者との平等に基づいて障害者が十分かつ効果的に社会に参加することを妨げる人々の態度や環境における障壁との対立から生ずる」(障害者権利条約)とうたわれてもいるように社会のあり方の問題なのです。すべての人が尊厳と価値を認められ、差別されず自由に生きる社会でなければなりません。しかし今、経済の行き詰まりで福祉予算を削るために出されたのが「障害者自立支援法」です。福祉事業を規制緩和して民間任(まか)せにし、「サービス」と規定し、利用したら「応益で費用を負担せよ」など、福祉の考え方を根本から否定するもので激しい反対が起こりました。労働や社会からさんざん障害者を排除してきた資本主義が今度は「支援」の名で「働ける障害者は働け」「働けないものに支援はしない」といっているのです。個性を大事に運営されてきた小規模作業所に大混乱を持ち込み、競争を煽る。こんな法は廃止あるのみです。
(茅原(ちはら))

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