ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第15号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp


もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

  ●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

  ●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年1月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第16号(2009年4月)
●「もくれんの家」の移送サービス事業
 皆さんに支えられた6年に終止符


多くの人々にご利用いただいた車と
運転協力員さん


 「共に生きる国際交流と福祉の家(通称「もくれんの家」)の移送サービスは2009年3月末をもって終了いたしました。
 本当に多くの皆さまのご協力と、熱い気持ちに支えられて続けることができました。大きな事故もなく、無事に事業を閉じることができ、感謝の気持ちで一杯です。
 また事業を終了するに当たって、利用者および運転協力員の皆さまに混乱やご迷惑をおかけしたことを心からお詫びいたします。
 2003年にたった一台の、しかもいただいた中古の福祉車両(車椅子の乗れる車両)から始まった事業でした。運転協力員さんも「もくれんの家」の理事と関係者だけだったのが、その後、呼びかけに応えて、次々と名乗りをあげ参加していただき、自分の車ごと協力していただいた方を含めて、2009年3月末には11人となりました。稼働する車は福祉車両が7台、普通車が8台にまで充実し、登録会員さんは200人を超え、年間の運行回数は5500回をゆうに超え、6000回に迫ろうとしていました。こうして区内、いえ都内でも有数の「福祉有償運送事業者」となりました。

激しい議論を経て撤退を決断

 にもかかわらず、私たちは「このまま移送サービスを続けるわけにはいかない」という状況にたちいたりました。
 この決断に至る過程は、本当に厳しいものでした。理事会の中はもちろん、運転協力員さんとも激しい討議を何回もおこないました。
 一番問題であり、運転協力員さんから強く指摘されたのは「利用者さんを放り出せるのか!」ということでした。日々、利用会員さんの切実な現状に触れ、無くてはならない移動手段であることを身をもって感じているドライバーさんたちの言葉に、改めて「移送サービス」の持つ重大な社会的意義を思い知らされました。しかし逆に、これほど社会的に必要とされ、しかも命に直結する仕事を、ボランティアでおこなって良いのか、本来公共の事業として自治体が責任を持つべき仕事ではないのか、まして専属の職員も事務所も持てない財政状況では無理であり、大きな事故にもつながりかねない…、という思いを強くし運転協力員さんにもご理解を求めました。
 そうした討議の中で「もくれんが出来ないなら自分たちがやる」と声を上げてくださる方があり、新たに2つのNPOが誕生することになったのです。

NPO 杉並移送サービス(SIS)
代表  若宮(わかみや) 恒徳(つねのり)

事務所 阿佐ヶ谷南1―47―17
 阿佐ヶ谷地域区民センター内
    キックオフ・オフイス
電話 03(6794)7000
携帯 070(5550)5763
 「このたび、もくれんさんの移送サービスの事業を引き継ぐことになりました。もくれんさんの大事な気持ちを引き継いでいきます。ありがとうございました。心から感謝です」

NPO 福祉送迎サービス・杉並
代表  長谷川(はせがわ) 信儀(のぶよし)

事務所 清水3―27―2
電話 03(5303)6599
携帯 090(7211)0100
 「三年前、4人の仲間に入れていただいて新しい仲間が出来た、また八木ヶ谷さんはじめ皆さんと出会えた、これがうれしかったです。定年退職してからもやることはあるというのは幸せです。よろしくお願いします」

移送サービスの歴史

 そもそも、「移送サービス」とはどのようなものでしょうか。
 杉並区の資料によれば、「移動困難者」といわれるのは、要支援・要介護の高齢者、身体「障害者」、知的「障害者」を数えて2万人以上と割り出しています。公共交通(バスや電車)での外出が困難である、という方たちです。この方々の通院や外出の手段は、もっぱら家族やタクシーに頼るのが現状のようでした。
 「サービス」とは言いますが、もともとは車椅子の方たちの、自由に出かけたいという強い要求がさまざまな形で自治体や国を動かし、移動手段を獲得してきた歴史があり、民間でも多くの団体が行政のバックアップを受けて育っていました。同時に「白タク行為だ」というタクシー業界からのクレームと国交省の規制が始まり、自主団体の責任者が逮捕されるというような事態が生まれ、法的整備が求められていました。
 しかし、「整備」された法は、自主的団体が事業を続けるには高すぎるハードルとなり、これまで地道に活動してきた団体をふるい落とし、利用者を投げ出す結果となりました。
 さらに運行の対価は本当に低く抑えられました。例えば「もくれんの家」の価格設定は、杉並の成田東から河北病院まで(2キロメート以内)お乗せして介助料、送迎料含めて850円(タクシーなら1010円以上)となり、その内の75パーセントを謝金として運転協力員さんにお支払いするシステムをとってきました。この価格設定も「運送の対価はタクシー料金の概(おおむ)ね二分の一」という規約に縛(しば)られ、それ以上の設定は認めないというものでした。およそ協力員さんの労働に見合うものとは程遠く、会の運営そのものも維持できる数字ではありませんでした。そこには、弱者切捨て・福祉解体の大きな流れがあり、すべてを「民営化=競争原理」に叩(たた)き込み「儲(もう)けにならないことはボランティア=NPO等に担(にな)わせる」という国を挙(あ)げた方向転換がはらまれていました。
 「もくれんの家」は、他の団体のみなさんといっしょに国交省主導のこうした動きに声を大にして抗議し、杉並区の対応を求めてきました。
 私たちはこのような制度の過渡期に事業を始め、困難な状況の中で歯を食いしばって続けて来たのです。
 一昨年には、27年間杉並で福祉運送を手がけてこられた、老舗(しにせ)の「友愛の灯協会」が「移送サービス事業」を断念するという衝撃的事態が起こりました。
 開始から6年を経て「もくれんの家」が撤退することでNPO団体で残ったのは1団体だけとなりました。しかしこの現状は全国の関係団体にも問題提起となり「移送サービス」の今後の展開への一石を投じたと確信しています。

利用者アンケートから

 2008年3月、杉並区や関係団体に現状を訴える一助として、ご利用者さまにアンケートをお願いしました。その一部をご紹介します。
*いつも変わらぬ笑顔、介護の気持ちが伝わる。
*区もこの事業を理解し、ご支援くださるようお願いします。
*同じドライバーさんに確実に迎えに来ていただけて安心です。
*透析は不可欠の生命手段であり、とてもありがたい。
*目の不自由な母が安心して利用できます。ずっと利用したいです。

強いきずなで結ばれた運転協力員の皆さん

 「もくれんの家」の運転を担ってくださった運転協力員さんの年齢構成は、50代後半から70代前半の方々です。運転協力を始めるきっかけは、それぞれさまざまですが、共通しているのは早期あるいは定年退職後に、なにか社会とのつながりのある「人の役に立つ」仕事につきたいという想いです。実際、企業の中で凌(しの)ぎを削(けず)ってきた方たちも多く、「人に本心から有難うといわれたのはこの仕事で初めてだ」と語る方もあります。
 同じ杉並に在住しながら、まったくつながりの無かった方々が、「もくれんの家」の活動を通して出会い、月1度のミーティング、年2回の慰労会で親交を深めてきました。
 また、「もくれんの家」の事業撤退の提案を皆さんが真剣に受けとめ、一緒に考えてくださいました。時に声を荒げて怒鳴りあいもしながら、現在の「移動困難者」をめぐる社会の問題に直面し、行政のあり方に憤(いきどお)りを共有した過程は、仲間としての気持ちを固めた時でもありました。
 新しく生まれたNPOも、個性と特色のある「移送サービス」としてすでにスタートしています。「もくれんの家の精神」を引き継ぎ発展させていただけることと感じています。
(茅原(ちはら))


●運転協力員の皆さん、ありがとうございました


6年間、移送サ−ビスの事業を
一緒に担ってくれた運転協力員
の皆さんと楽しくお別れの慰労
会をおこないました
(2009年3月。荻窪の居酒屋で)


●Yさん「会長さんに惚れて移送 サービスの仕事をやってきました。ありがとう」
●KNさん「面白かったです。いろんな年代、いろんな病気の人と出会えて、お互いに気持ちの交歓が出来、強いきずなで結ばれました。もくれんさんには、これからも側面から両NPOを支援して欲しいです。若々しく働けたことは何よりの収穫でした」
●Tさん「ありがとう、ただ、この一言です」
●KDさん「うっかりスケジュールを忘れたこともありました。利用者さんから、ありがとうと言われてうれしかったです。これからも頑張ります」

●朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「人工衛星打ち上げ」をきっかけとした、
朝鮮総連と朝鮮学校への脅迫・いやがらせを許してはならない

 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が「人工衛星ロケットを打ち上げる」と発表するや日本政府(麻生政権)は「弾道ミサイルだ」「イージス艦を配備し、PAC3ミサイルで打ち落とし破壊する」と自衛隊を動かした軍事行動を開始し、全国の自治体と学校を動員する体制をとりました。そして、4月5日(日)に人工衛星が発射されると、まるで「北朝鮮との間に戦争が始まった」かのような対応に終始し、マスコミは北朝鮮への反感と憎悪(ぞうお)と恐怖心を扇動しました。その結果、朝鮮総連本部(千代田区)や全国の朝鮮学校にたいして右翼団体などによる脅迫やいやがらせ事件が起きています。北朝鮮による「ロケット打ち上げ」の意図についてはさまざまに言われていますが、いずれにせよ、この軍事行動を「奇貨(きか)」として、日本社会全体を北朝鮮に対する戦争体制に組み敷いたり、在日朝鮮人民に対する民族排外主義攻撃をおこなうことなど、決して許してはなりません。私たちは心から信頼できる国際交流をさらに深め、日本社会を戦争に引きずり込むことに反対し、平和への道を一歩一歩力強く歩んでいきましょう。

●ニィハオ+アンニョン・パーティ(2月14日)の報告
日本人の鏡に私が映る」―在日三世・高秀美(コスミ)さんの人生を聞く




 高秀美さんは「もくれんの家」が支援し、筆者もメンバーである『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相糾明と名誉回復を求める市民の会』で活動を共にしている女性です。彼女は編集者として数々の本を送り出していて、例えば昨年「もくれんの家」で一人芝居を上演した在日二世・宋富子(ソンブジャ)さんの『愛するとき奇跡は創られる』(三一書房刊)もその一冊。
 近著に主要なインタビュアーのひとりとして参加した集英社新書『在日一世の記憶』があります。この本は新書としては破格の700頁を越す大部の書で有名無名、ほんとうにさまざまな52人の人生が収められた労作です。高さんに『在日―』について、また自身の人生について語ってほしいと2月のニイハオ+アンニョン・パーティが企画されました。
 冒頭、彼女は「ほんとうは日本人の鏡に私が映ると言いたかったんです」と朝日新聞に取り上げられた彼女の言葉(「在日の鏡」)に訂正を入れました。
 通名を名乗っていた小学時代、おそらく優等生で叱責(しっせき)を受けることなどなかった少女に、ある瞬間教師が投げつけた「日本人だったらそんなことはしない」を意味した視線について、また、将来の職業選択は「故国の役に立つ者になる」を理由に志向したこと、「在日」であることを主体的に受けとめて人生の仕事を決めた九州・筑豊への旅の話、『在日―』には実は彼女の父親へのインタビューも収録されており、聞き取り、書き留めておくことの大切さと難しさについても語ってくれました。
 質問も飛び交(か)う充実したひととき、さて、聞く者ひとりひとりの鏡に「高秀美」の人生はどう映ったでしょうか。
 機会を改めて続編をお願いしたいという声もあります。高さん、またよろしくお願いします。ありがとうございました。
(角取(かとり))

●「もくれんの家」は毎月第二土曜日の午後4時から7時まで「ニイハオ+アンニョン・パーティ」を開いています。手料理を楽しみながら、政治・文化・社会問題など、さまざまなことを語り合っています。一度、のぞいてみませんか? お待ちしています。


●話題の広場
浮島丸事件とは?


新宿にある
高麗博物館の
1階入り口


 3月20日(金)、新宿の「高麗博物館」に出かけ、「浮島丸(うきしままる)事件と日本の戦争責任 ―隣人への信義を守れ―」という企画展を見学してきました。


博物館の太田さん(右)から
説明を受けました


 1945年8月24日、日本海軍が運送船として使用していた浮島丸(4730トン)が、青森県大湊(おおみなと)港から朝鮮・釜山(プサン)に向かう途中、舞鶴湾(京都)に入ったところで爆発し沈没しました。船には、強制連行され青森県・下北(しもきた)半島などで海軍の軍属(ぐんぞく)や工員として強制労働をさせられていた朝鮮人とその家族、乗組員、合計約4000人が乗っていました。朝鮮の解放を迎えて急いで故郷・朝鮮に帰るために乗り込んでいたのです。死亡者は182人、行方不明367人、計549人(日本人乗組員25人を含む)といわれていますが、正確な犠牲者数は分かっていません。沈没の原因については、@米軍が舞鶴の軍港を使えないようにするために落とした機雷に触(ふ)れた、A日本海軍が朝鮮人を強制労働させた証拠を隠滅するためにわざと爆破して虐殺した、B日本人乗組員が釜山に行けば日本に帰って来れなくなることを恐れて船を沈めた、などいくつかの説がありますが、真相は明らかではありません。
 1950年と54年に浮島丸を引き揚げる作業がおこなわれ252人の遺体が収容され、沈没直後の遺体と合わせて目黒区の浄土宗・祐天寺(ゆうてんじ)に保管されてきました。しかし、無責任な態度を決め込む日本政府は何も調査をしていないため、身元がわからない遺骨が多く、遺族のもとに返すことができないでいます。1992年には韓国に住む生存者や遺族らが日本政府に謝罪、損害賠償、遺骨の返還などを求めて提訴、京都地方裁判所は政府が浮島丸を安全に運行させなかった責任は認めましたが、最高裁で敗訴が確定しました(2004年)。
 政府は日本人乗組員には国家責任を認め、補償しているにもかかわらず、朝鮮人犠牲者に対しては、いまだに放置し続けているのです。舞鶴では1954年から市民団体によって慰霊祭が開かれ、1978年には追悼碑が建てられました。毎年8月24日に碑の前で追悼式がおこなわれています。
(片岡)


●来自中国的両位客人看望了八木ヶ谷老人!



 3月6日(金)夜、中国・安徽(アンフォイ)省合肥(パーフェイ)市から羅国厳(ロウグウヤン)さん(右)と蒋文龍(ジイアンウェンロン)さん(左。蒋さんは2008年5月に大震災をこうむった四川(スーチョアン)省の出身。蒋さんはその時の死ぬほどの恐怖と不安を語っていました)のお二人が八木ヶ谷を訪ねてきました。日本で研修があり、その合間をぬって来てくれたのでした(八木ヶ谷が長年親交のある安徽省在住の王興業(ワンシンイエ)さんのお土産をかかえて)。一緒に夕ご飯を食べ一泊していただきました。(写真は7日朝、撮影)

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