もくれんの家 会報 |
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子) 東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367 E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp |
もくれんの家 会報 (2005年1月) ●第2号 (2005年10月) ●第3号 (2006年1月) ●第4号 (2006年4月) ●第5号 (2006年6月) ●第6号 (2006年11月) ●第7号 (2007年1月) ●第8号 (2007年3月) ●第9号 (2007年7月) ●第10号 (2007年9月) ●第11号 (2008年1月) ●第12号 (2008年4月) ●第13号 (2008年7月) ●第14号 (2008年10月) ●第15号 (2009年1月) ●第16号 (2009年1月) ●第17号 (2009年7月) ●第18号 (2009年10月) ●第19号 (2010年1月) ●第20号 (2010年4月) ●第21号 (2010年7月) ●第22号 (2010年10月) ●第23号 (2011年1月) ●第24号 (2011年4月) ●第25号 (2011年7月) ●第26号 (2011年10月) ●第27号 (2012年1月) ●第28号 (2012年4月) |
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●「もくれんの家」の移送サービス事業 皆さんに支えられた6年に終止符
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が「人工衛星ロケットを打ち上げる」と発表するや日本政府(麻生政権)は「弾道ミサイルだ」「イージス艦を配備し、PAC3ミサイルで打ち落とし破壊する」と自衛隊を動かした軍事行動を開始し、全国の自治体と学校を動員する体制をとりました。そして、4月5日(日)に人工衛星が発射されると、まるで「北朝鮮との間に戦争が始まった」かのような対応に終始し、マスコミは北朝鮮への反感と憎悪(ぞうお)と恐怖心を扇動しました。その結果、朝鮮総連本部(千代田区)や全国の朝鮮学校にたいして右翼団体などによる脅迫やいやがらせ事件が起きています。北朝鮮による「ロケット打ち上げ」の意図についてはさまざまに言われていますが、いずれにせよ、この軍事行動を「奇貨(きか)」として、日本社会全体を北朝鮮に対する戦争体制に組み敷いたり、在日朝鮮人民に対する民族排外主義攻撃をおこなうことなど、決して許してはなりません。私たちは心から信頼できる国際交流をさらに深め、日本社会を戦争に引きずり込むことに反対し、平和への道を一歩一歩力強く歩んでいきましょう。 |
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●ニィハオ+アンニョン・パーティ(2月14日)の報告 日本人の鏡に私が映る」―在日三世・高秀美(コスミ)さんの人生を聞く ![]() 高秀美さんは「もくれんの家」が支援し、筆者もメンバーである『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相糾明と名誉回復を求める市民の会』で活動を共にしている女性です。彼女は編集者として数々の本を送り出していて、例えば昨年「もくれんの家」で一人芝居を上演した在日二世・宋富子(ソンブジャ)さんの『愛するとき奇跡は創られる』(三一書房刊)もその一冊。 近著に主要なインタビュアーのひとりとして参加した集英社新書『在日一世の記憶』があります。この本は新書としては破格の700頁を越す大部の書で有名無名、ほんとうにさまざまな52人の人生が収められた労作です。高さんに『在日―』について、また自身の人生について語ってほしいと2月のニイハオ+アンニョン・パーティが企画されました。 冒頭、彼女は「ほんとうは日本人の鏡に私が映ると言いたかったんです」と朝日新聞に取り上げられた彼女の言葉(「在日の鏡」)に訂正を入れました。 通名を名乗っていた小学時代、おそらく優等生で叱責(しっせき)を受けることなどなかった少女に、ある瞬間教師が投げつけた「日本人だったらそんなことはしない」を意味した視線について、また、将来の職業選択は「故国の役に立つ者になる」を理由に志向したこと、「在日」であることを主体的に受けとめて人生の仕事を決めた九州・筑豊への旅の話、『在日―』には実は彼女の父親へのインタビューも収録されており、聞き取り、書き留めておくことの大切さと難しさについても語ってくれました。 質問も飛び交(か)う充実したひととき、さて、聞く者ひとりひとりの鏡に「高秀美」の人生はどう映ったでしょうか。 機会を改めて続編をお願いしたいという声もあります。高さん、またよろしくお願いします。ありがとうございました。 (角取(かとり)) ●「もくれんの家」は毎月第二土曜日の午後4時から7時まで「ニイハオ+アンニョン・パーティ」を開いています。手料理を楽しみながら、政治・文化・社会問題など、さまざまなことを語り合っています。一度、のぞいてみませんか? お待ちしています。 ●話題の広場 浮島丸事件とは? ![]() 新宿にある 高麗博物館の 1階入り口 3月20日(金)、新宿の「高麗博物館」に出かけ、「浮島丸(うきしままる)事件と日本の戦争責任 ―隣人への信義を守れ―」という企画展を見学してきました。 ![]() 博物館の太田さん(右)から 説明を受けました 1945年8月24日、日本海軍が運送船として使用していた浮島丸(4730トン)が、青森県大湊(おおみなと)港から朝鮮・釜山(プサン)に向かう途中、舞鶴湾(京都)に入ったところで爆発し沈没しました。船には、強制連行され青森県・下北(しもきた)半島などで海軍の軍属(ぐんぞく)や工員として強制労働をさせられていた朝鮮人とその家族、乗組員、合計約4000人が乗っていました。朝鮮の解放を迎えて急いで故郷・朝鮮に帰るために乗り込んでいたのです。死亡者は182人、行方不明367人、計549人(日本人乗組員25人を含む)といわれていますが、正確な犠牲者数は分かっていません。沈没の原因については、@米軍が舞鶴の軍港を使えないようにするために落とした機雷に触(ふ)れた、A日本海軍が朝鮮人を強制労働させた証拠を隠滅するためにわざと爆破して虐殺した、B日本人乗組員が釜山に行けば日本に帰って来れなくなることを恐れて船を沈めた、などいくつかの説がありますが、真相は明らかではありません。 1950年と54年に浮島丸を引き揚げる作業がおこなわれ252人の遺体が収容され、沈没直後の遺体と合わせて目黒区の浄土宗・祐天寺(ゆうてんじ)に保管されてきました。しかし、無責任な態度を決め込む日本政府は何も調査をしていないため、身元がわからない遺骨が多く、遺族のもとに返すことができないでいます。1992年には韓国に住む生存者や遺族らが日本政府に謝罪、損害賠償、遺骨の返還などを求めて提訴、京都地方裁判所は政府が浮島丸を安全に運行させなかった責任は認めましたが、最高裁で敗訴が確定しました(2004年)。 政府は日本人乗組員には国家責任を認め、補償しているにもかかわらず、朝鮮人犠牲者に対しては、いまだに放置し続けているのです。舞鶴では1954年から市民団体によって慰霊祭が開かれ、1978年には追悼碑が建てられました。毎年8月24日に碑の前で追悼式がおこなわれています。 (片岡) ●来自中国的両位客人看望了八木ヶ谷老人! ![]() 3月6日(金)夜、中国・安徽(アンフォイ)省合肥(パーフェイ)市から羅国厳(ロウグウヤン)さん(右)と蒋文龍(ジイアンウェンロン)さん(左。蒋さんは2008年5月に大震災をこうむった四川(スーチョアン)省の出身。蒋さんはその時の死ぬほどの恐怖と不安を語っていました)のお二人が八木ヶ谷を訪ねてきました。日本で研修があり、その合間をぬって来てくれたのでした(八木ヶ谷が長年親交のある安徽省在住の王興業(ワンシンイエ)さんのお土産をかかえて)。一緒に夕ご飯を食べ一泊していただきました。(写真は7日朝、撮影) |