ホーム ->活動内容 ->「もくれんの家」会報 第6号


もくれんの家 会報
NPO法人「共に生きる国際交流と福祉の家」(代表 八木ヶ谷妙子)
東京都杉並区阿佐谷北5−27−11 TEL(FAX) 03−3336−5367

E-mail:qqmn9ez9@coffee.ocn.ne.jp

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もくれんの家

会報

●第1号
(2005年1月)


●第2号
(2005年10月)

●第3号
(2006年1月)


●第4号
(2006年4月)

●第5号
(2006年6月)

●第6号
(2006年11月)

●第7号
(2007年1月)

  ●第8号
(2007年3月)

●第9号
(2007年7月)

  ●第10号
(2007年9月)

  ●第11号
(2008年1月)

  ●第12号
(2008年4月)

  ●第13号
(2008年7月)

  ●第14号
(2008年10月)

●第15号
(2009年1月)

  ●第16号
(2009年4月)

  ●第17号
(2009年7月)

  ●第18号
(2009年10月)

  ●第19号
(2010年1月)

  ●第20号
(2010年4月)

  ●第21号
(2010年7月)

  ●第22号
(2010年10月)

  ●第23号
(2011年1月)

  ●第24号
(2011年4月)

  ●第25号
(2011年7月)

  ●第26号
(2011年10月)

 ●第27号
(2012年1月)

 ●第28号
(2012年4月)

第6号(2006年11月)
●可越(クゥイェ)さん(「東京視点」代表)が5周年記念イベントを開催

『東京視点』5周年記念イベント(「中日市民交流」)を開催した可越さん  喜ばしくおおいに励まされたイベントの報告です。9月23日(土)、東京・新橋のビクターホールで『東京視点』の5周年記念イベントが開催されました。
 『東京視点』とは「身近な日本を中国へ」「身近な中国を日本へ」を合い言葉にしたボランティアインターネット放送局。その主宰者である可越(か・えつ)さんは、かつて「もくれんの家」代表・八木ヶ谷妙子さんの家に下宿していた女性で、現在もニイハオパーティなど交流活動の強力な推進者のひとりです。中国長春市出身、吉林大学日本語学科を修了した後、来日。埼玉大学と東京大学の大学院でメディア論などを学びました。 「身近な日本を中国に伝えて行くことによって日中の国際交流を促進したい」「メディアを発信したい」と彼女はサイトを立ち上げ、人々に声をかけ、いまや映像制作・配信に関わるメンバーは中国人留学生、日本人等約110人。作品は120本を越えました。
 テーマは日本の祭りや携帯電話とのつきあい方など、日常生活に関するものから、社会問題についてなど様々です。「日中関係に逆風が吹く今こそ、市民交流が大切なのです」と語る可越さんのことは、朝日新聞「ひと」欄(2006年9月9日)など各種メディアでも取り上げられましたからすでにご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
 世界的な映像フェスティバル「東京ビデオフェスティバル」ではここ3年連続して『東京視点』の作品が賞を受賞しています。そのひとつが八木ヶ谷代表を可越さんがとりあげた『私の日本人おばあちゃん』。草の根の国際交流を自らの生き方を通して人々に伝えてきた「おばあちゃん」の存在の大きさが彼女の視点で浮かび上がります。
「もくれんの家」代表の八木ヶ谷が激励のあいさつ 5周年記念イベントでもこの作品が上映され、参加していた八木ヶ谷代表も人々に紹介されることとなりました。資金面での困難などいくつもの壁を情熱と信念で乗り越えてきた可越さんをあたたかく誇らしく見つめる代表がいました。彼女もまた「八木ヶ谷学校」の教え子のひとりです。
 ぜひ、サイトでご覧ください。『東京視点』の入力ですぐに見つかります。
 (角取(かとり))
●「在日韓民族無縁の霊碑を守る会」の第7回慰霊式に参加して

左から宮川、俣野、八木ヶ谷 八木ヶ谷妙子さんと知り合ったきっかけは、私の実家がある千葉県で、関東大震災の時(1923年9月1日)に村人たちが軍隊の命令で朝鮮人を殺した、という事件を聞いたことだった。軍隊は自分たちが朝鮮人を殺した罪を隠すために、村人たちを巻き添えにして口封じをしようとしたと思われる。八木ヶ谷さんは、この事件の目撃者である。 
 私は毎年9月に現地の習志野でおこなわれている慰霊祭に一昨年から参加していた。そして、八木ヶ谷さんが私のアパートの近所に住んでいることを聞いて、昨年「もくれんの家」を訪ね、ニイハオパーティに参加するようになった。今では精神的にも物質的にも本当に助けてもらっている。これも元はといえば悲惨な事件を乗り越えようとする人たちの善意が集まった結果である。だから、習志野の慰霊祭には必ず参加することにしている。
 しかし、この日はまた、一年で一番体力的につらい日でもある。残暑で気温が35度以上になる中を半日車で現地を回るのは本当にきつい。「死んだ人たちの苦しみを思えば一日くらい何てことはないはず」と思いつつも、気分が悪くなったらどうやって帰ろうか、などと考えているうちに一日が過ぎてしまう。左が河正雄(ハジョンウン)さん(埼玉県日高市の高麗山聖天院勝楽寺にて。2006年9月5日)
 今年は他の人たちにも参加するよう呼びかけたので、現地で道案内するつもりだった。そのため、もう一度八木ヶ谷さんに当時の体験を聞きにうかがったところ、「在日韓民族無縁の霊碑を守る会の第7回慰霊式」に誘っていただいた。八木ヶ谷さんの「私は絶対に参加するからあなたもぜひ来なさい」とか、宮川さんの「すばらしいヴァイオリンの演奏が聴けるのよ」といった言葉につられて本当に気楽に参加してしまった。
丁讃宇(ジョンチャヌ)さん しかし、恥ずかしながら、私は慰霊式が終わるまで、この会の目的が何なのか、なぜ河正雄(ハジョンウン)さんが来ているのかもまったくわからずにいた。
 慰霊式が終わってみて、日本軍の強制連行などによる大勢の朝鮮人犠牲者がほったらかしにされている事実を思い出し、暑い外で朝鮮の人たちが朝鮮式に帽子と靴を脱いで祭壇に上がり慰霊をした現実の体験の大切さを感じた。林玉順(リンオクスン)さん
 私は本堂では一番前に座っていたので朝鮮のお坊さんたちや詩や短歌を朗読した人たちの様子がよく見えたし、丁讃宇(ジョンチャヌ)さんがヴァイオリンを演奏(韓国歌曲「同心草」)した時もほとんど同じ畳の上にいて間近に聴くことができて幸運だった。また金剛山歌劇団の林玉順(リンオクスン)さんの献歌「イムジン河」も心にしみいった。
 日本人は一度慰霊をすると、自分の気が済んでしまって、事件のことまで忘れてしまうような気がする。私は日本人の悪い習慣に引きずられないように気を付けるためにも、これからも毎年慰霊式に参加していくつもりである。 (俣野美代子(またの・みよこ))
●宮川珠子(みやがわたまこ)の世界旅行@(英国その1)

地図:イギリスとアイルランド 「今回から「もくれんの家」の会員である宮川珠子さん(86歳)の世界旅行記をお届けします。宮川さんは1920年(大正9年)に鹿児島県に生まれ、戦前・戦後にわたって愛媛県で小学校・中学校の教員をなさっていました。子どもさん、お孫さん、かわいいひ孫の皆さんに恵まれ、イギリス、中国、エジプト、アメリカ、フィジー諸島などを旅してきました。現在は中野区にお住まいです。シリーズの最初はイギリス旅行の前編です。(編集部)
 夏休みで帰国していた、ロンドンのエジンバラ大学で植物学を学んでいる孫娘(26歳)に誘われてイギリスに行ってきました。子午線に立つ。「子」は北、「午」は南の意味
 8月8日成田を12時に出発。窓際の席に座り、本を読んだり眠ったりしていましたが、眼下には本当に広々としたシベリアの大草原や大きな川が見えました。ロンドン・ヒースロー空港に着き、孫娘のアパートには18時に着きました(時差8時間。飛行時間13時間)。アパートにはポルトガルから来た留学生2人、スペインから1人、スコットランドから1人の同級生が住んでいました。
 9日は孫の中古車で買い物に出かけ、10日は1812年に造られたリージェンツ運河(テムズ河まで結ばれている)のクルージングを楽しみました。イギリス、子午線
低くて狭いトンネル、水上生活者の船、ロンドン動物園などの風景を楽しみました。また、待望の2階建てバスの2階の一番手前の席で町中を見学しながら、テムズ河にかかるロンドン橋をわたりました。11日は、歩いて10分くらいのところに骨董市が立つというので出かけ、高さ30pばかりの木製の黒猫を5ポンド(日本円で約1000円)で一個買い、野菜・果物・パンなどをリュックいっぱいに買い込みました。
 12日はグリニッジ天文台を見学。子午線上、東洋と西洋を分かつところに立ちました。
ネス湖の記事 この日は、はたしてネッシーはいたのか?
 13日はロンドンから飛行機でスコットランドに5泊6日の旅に出かけました。11日にロンドンの空港でテロ未遂事件があったそうで、イギリス国内のインヴァネスに行くというのに空港は検査が厳しく大混雑を極めていました。インヴァネス空港からはレンタカー(日本と同じ右ハンドル)で、かのネス湖へ向かいました。ネス湖は長さ40kmの細長い湖で、最深部が300bもある不凍湖です。ながめの良い湖岸のレストランで野菜たっぷりの夕食をいただき、自然豊かな中、車も少なく、すてきなドライブを楽しみました。森の中にあるホテルには午後9時過ぎに着きましたが、まだ暗くはありませんでした。灯台から左が大西洋、右が北海になる
 朝になると、いろいろな種類の小鳥が庭のエサ台に群がっていました。野菜と飲み物たっぷりのおいしい朝食を済ませてホテルを出発。途中、郵便局で切手を買い、信号もない北海の田舎道を北上しました。夏だというのに気温は11度です。断崖絶壁に淋しくそびえる最北端の灯台に到着。ここのうしろが大西洋です。 (後編は次号)
●患者の立場に立った「がん医療」とは――松江寛人さん(医師)の講演

 10月1日(日)、私たちNPO「もくれんの家」と「がん総合相談センター」の共催で医療講演会を開催しました。この企画は昨年と今年初めの2回の医療講演会の成功の上に立って、今回、がん総合相談センターが荻窪に移転してきたことを受けて、今後、杉並区の地域に密着した医療相談活動を広めていくためのお披露目の記念的な講演会でした。
これで3回目となった医療講演会。とても好評です がん患者の皆さんやそのご家族、医療関係者など70名以上の人々が参加しました。がん総合相談センター所長の松江寛人医師は現在のがん医療におけるインフォームドコンセント、セカンドオピニオンなどが必ずしも患者の悩みに応えるものになっていない現実を批判し、患者の立場に立ったがん相談の必要性を訴えられました。
 次に講演に立った、神奈川県立がんセンターの山下浩介医師は、がん患者のQOL(生活の質)に配慮したがん治療の必要性について話されました。がんはその痛みから悪いイメージがあるが、亡くなるまでに一定の時間を与えられるという点では、必ずしもそんなに恐れる必要はないというお話でした。山下先生のユーモアを交えたお話には、深刻な話題にもかかわらず、参加者の皆さんもなごやかな雰囲気に包まれました。さらに、麻酔の専門医からも痛みの治療によって末期がんの患者さんの多くが痛みから救われている現状が報告されました。
 最後に、3人の医師が参加者からのさまざまな深刻な質問に答えていただきました。3時間という長時間にもかかわらず、皆さん熱心にメモを取ったりしながら聞き入り、「またこういう講演会を開いてほしい」という声が多く寄せられました。
 私たちNPO「もくれんの家」としても「がん患者の皆さんの悩みを解決する力になりたい」と言われる松江先生の熱意に、今後も協力していきたいという思いを強くした講演会でした。 (三村)
●移送サービス部は本日も安全運転
ミーティングを終えて、会食をしながら懇親を深める(9月7日)
 今年度から杉並区の「有償運送許可」を受けて本格スタートした「もくれんの家」の移送サービスですが、おかげさまで順調に展開しています。この間、運転協力員さんが2人増え、車両も他団体からの寄贈を受け2台となりました。区の冊子に紹介されていることもあり、ご利用希望の問い合わせが急増しています。
 毎日毎日、雨の日も風の日も、「もくれんの家」の看板をつけた車両が杉並区内をはじめ、遠方は千葉県・柏市や西東京市などまで走っています。ご利用の方は「人工透析」などの定期的通院はもちろん、結婚式や観光などのお出かけにもご利用いただいています。レギュラーの方にはできるだけ同じドライバーがおうかがいできるように配車しています。
 困難な通院が少しでも安心にできるよう、協力できることを喜びに感じています。幸いドライバーの皆さんはヘルパー資格を持っておられる方も多く、基本的な介護の精神と技術で対応しています。毎月のミーティングで、安全で心の通い合う移送サービスをおこなっていきたいと話し合っています。 (茅原)

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